奈良文化財研究所に関するさまざまな情報を発信します。

探検!奈文研の最近のブログ記事

(171)花粉は語る

 今年も花粉症でお悩みの方は多いと思います。現代では憎まれ役の花粉ですが、実は、考古学者にとっては力強い味方です。  明日香村にある甘樫丘(あまかしのおか)は国営公園として親しまれていますが、この丘の東麓部を、奈文研が継続して発掘しています。ここでは7世紀前半~中頃の建物跡などが見つかり、「日...
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(170)平城宮跡・東院庭園

 「庭を見るなら京都、仏像を見るなら奈良」と言われるほど、奈良の庭は一般的にあまり知られていません。京都なら、龍安寺や金閣寺など有名な寺院の庭がすぐ頭に浮かぶでしょう。しかし、奈良と言われたら、どこの庭をイメージしますか?  奈良は仏像や古建築、古墳、花など様々なテーマで紹介されることがあって...
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(169)危機から脱した文化遺産

 危機から脱した文化遺産として、今回はカンボジアのアンコール遺跡群を採り上げましょう。アンコール遺跡群は、802年から1431年まで栄えたアンコール王朝時代の壮大な遺跡群です。1992年に国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に、また同時に「危機遺産」にも登録されました(危機遺産は2...
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(168)危機に直面する文化遺産

 文化遺産を破壊や消滅の危機にさらすのは、なにも自然災害だけではありません。今回は、人間の手によって壊されようとしている文化遺産を紹介します。  内戦が続くアフガニスタンでは、世界文化遺産・バーミヤンにある東西大仏が、当時のタリバン政権によって2001年に爆破されてしまいました。イスラムの教義...
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(167)被災資料が伝える教訓

 東日本大震災から昨日でちょうど6年。津波被害にあった博物館などでは、被災地の方々や全国の関係者によって文化財の修復事業が今も続けられており、多くの被災文化財がよみがえりました。  しかし、未(いま)だに泥の中から救出されたままの状態の文化財があります。それは、発掘調査で出土した貴重な土器、石...
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(166)箸を使う

 みなさんいつも何を使って食事をしていますか?  箸、スプーン、フォーク......。いろいろありますが、一番使うのは箸ではないでしょうか。  実はこの箸、お隣の中国から飛鳥時代に伝わってきたもので、遣隋使が持ち帰ったともいわれています。では、それまではどうやって食事をしていたのでしょうか?...
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(165)平城宮跡出土の木製容器

 白木の木目が美しい曲げわっぱ。スギなどの針葉樹の薄板を曲げて容器にした「曲物(まげもの)」の一種です。現代では伝統工芸品となっていますが、曲物は日本では古代から日常的に使われていた道具でした。  私たちが発掘調査している平城宮跡(奈良市)からも、たくさんの曲物が見つかっています。これらは、い...
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(164)瀬田遺跡の円形周溝墓

 2016年春、橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代の終わり頃に造られた「円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)」が見つかりました。円形の墳丘の南側に台形の陸橋がとりついており、古墳時代の「前方後円墳」にそっくりです。全長はおよそ26メートル、墳丘の直径は約19メートル。残念ながら、墳丘は後世に削りとられて...
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(163)藤原宮の幢幡シリーズ(下)

 8年越しの調査により、私たちは、大宝元年(701年)に藤原宮(橿原市)で初めて立てられた7本の幢幡(どうばん)(儀式を飾る旗竿(ざお))の遺構を見つけました。文献記録のある時代の遺跡を発掘調査していても、その成果と記述が見事に一致する事例は、そう多くはありません。近年の藤原宮跡の調査では、最も...
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(162)藤原宮の幢幡シリーズ(中)

 前回ご紹介したように、藤原宮(橿原市)で大宝元年(701年)に幢幡(どうばん)(儀式を飾る旗竿(ざお))を立てた柱穴は、これまでの常識を覆すものでした。  奈良時代の恭仁(くに)宮(京都府木津川市)や平城宮(奈良市)で立てられた7本の幢幡は、いずれも横長の柱穴に、3本の柱(幢幡を飾る中央の柱...
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(161)藤原宮の幢幡シリーズ(上)

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年(701年)の元日に烏形(うぎょう)、日月、四神の7本の幢幡(どうばん)(儀式を飾る旗竿(ざお))を立てて朝賀(ちょうが)(年始の儀式)を行ったという有名な記事があります。2016年の藤原宮(橿原市)の調査で、この7本の幢幡を立てたとみられる大型の柱...
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(160)キトラ古墳の壁画

 キトラ古墳(明日香村)の壁画は1143片に分けて石室から取り外されました。カビの除去と強化処置、そして各壁面単位での再構成が行われ、「四神(しじん)の館」で保管・公開されることになりました。  四神の館での保管上の注意点は前回(159回)にご紹介しました。一方、壁画を未来に大切に保存していく...
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(159)キトラ古墳・四神の館

 前々回(157回)は明日香村の「キトラ古墳壁画体験館 四神(しじん)の館」の公開エリアを紹介しました。今回はその舞台裏、壁画と出土遺物の保存管理施設を紹介します。  2010年に石室から取り外されたキトラ古墳の壁画は、修理施設で壁面ごとに再構成され、今年8月に「四神の館」の保存管理施設に収納...
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(158)ペルシャ人とソグド人

 ◆酔胡王のモデル どっち?  奈良文化財研究所・平城宮跡資料館(奈良市)の秋期特別展「地下の正倉院展」では、「破斯清道」という人名が読み取れる木簡が展示されて話題になりました。「破斯」がペルシャを表す「波斯」と同じなら、ペルシャ人が平城宮で働いていたことを示す重要な資料となります。  ペル...
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(157)キトラ古墳 四神の館の展示

 この秋、キトラ古墳(明日香村)を中心とした国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が開園し、その中心施設として「キトラ古墳壁画体験館 四神(しじん)の館」もオープンしました。今回はその展示についてご紹介します。  四神の館には、公園を整備した国土交通省の展示施設と、文化庁の壁画保存管理施設がありま...
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(156)復原と復元の違い

 「ふくげん」された平城宮(奈良市)の大極殿。今回は、この「ふくげん」という言葉について考えたいと思います。  この言葉の誕生は近代で、比較的若い言葉です。でも、ひとことに「ふくげん」といっても意味の範囲は広く、漢字も「復元」と「復原」の二つがあります。辞書では、どちらも「もとの姿に戻すこと」...
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(155)地下の正倉院展より

 木簡の実物を見たことがありますか? 木簡にはさまざまな形状があります。切り込みがあったり、先端が尖(とが)っていたり、円柱状だったり……。書かれている文字はもちろん大事ですが、形から得られる情報も、木簡を理解する上で重要です。  古代の役人の勤務評価の木簡も特徴的...
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(154)古代の灯明油

 秋分が過ぎ、日が落ちるのもだんだん早くなってきました。暗い室内などで読み書きをするには、照明が必要です。ガスや電気が普及するまで、照明には油が欠かせませんでした。  平城京の役所では、土器の皿に油を注ぎ、麻布などを芯にして火を灯(とも)し、明かりをとっていました。  古代の文献に現れる油は...
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(153)万葉集の漢字のなぞなぞ

 〽ぶんぶんぶん ハチがとぶ~♪  万葉集の中に「蜂音」と書かれた歌があります(二九九一番歌)。でも、蜂は登場しないし、「ハチオト」と読んでも音数に合いません。一体、この2文字はどう読むのでしょうか。  そのヒントは、最初の蜂の歌にあります。ぶんぶんぶんの「ブ」です。蜂の羽の音を読み方に利用...
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(152)明治時代の小学校(下)

 鉛筆やノートがなかった時代、子供たちは石盤という小さな黒板に、石筆という硬いチョークのようなもので字を書いて勉強しました。大乗院庭園の池のなかからは、たくさんの石盤、石筆が出土しました。  池のなかの出土品をよく見ると、土瓶と呼ばれる陶製のヤカンやコンロが多いことに気がつきました。明治時代、...
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(151)明治時代の小学校(上)

 奈文研が研究しているのは、古代のことばかりではありません。今日は、明治時代の学校のお話です。  奈文研が調査した遺跡の一つに、名勝・大乗院庭園があります。立派な池があり、日本庭園の歴史を考えるうえで、とても重要な遺跡です。室町時代には、銀閣寺の庭を造ったことでも知られる善阿弥(ぜんあみ)が、...
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(150)百済ないもの・あるもの(下)

 前回は百済から来た様々なものを紹介しました。4世紀に始まるそのような友好関係は、百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる660年代まで続きました。  さて、百済から伝えられた様々なもの、それらは何と引き換えに日本に輸出されたのでしょうか。それを解くカギが百済の王陵から出土しています。  公州や扶余...
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(149)百済ないもの・あるもの(上)

 取るに足らないこと、つまらないことを意味する「くだらない」。この言葉が「百済(に)ない」に由来するという説があるとかないとか。  その真偽はさておき、古墳時代から飛鳥時代にかけて、日本は実に様々なものを、百済から輸入しました。その始まりは天理市の石上神宮に伝わる七支刀(国宝)で、遅くとも4世...
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(148)税金として納められた土器

 奈良時代には、税金としてさまざまな物品が、地方から平城宮に運ばれました。青灰色をした硬い焼き物である須恵器も、その一つです。「延喜式」によると、須恵器を納税していたのは、摂津・和泉・近江・美濃・播磨・備前・讃岐・筑前の国々でした。  筑前(現在の福岡県)の須恵器は、大宰府に運ばれたので除くと...
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(147)平城京北辺の巨大古墳群

 奈良盆地の北側を限る平城山(ならやま)は、標高90~100メートルほどのなだらかな丘陵です。その南斜面には、4世紀後半から5世紀中頃にかけて、数多くの古墳が築かれました。佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群と呼ばれる全国有数の古墳群で、墳丘の長さが200メートルを超える巨大な前方後円墳が8基も含まれ...
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(146)平城京と大和三道

 みなさんは奈良の都、平城京の場所がどのようにして決められたか、知っていますか? 何も考えずに決められたわけではありませんよ?   奈良盆地には、平城京がつくられる前から、東西方向と南北方向に走る複数の直線道路がありました。現在の国道のルーツともいうべき道路です。平城京はこうした直線道路を基準...
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(145)平城宮最大の瓦工場

 平城宮の北側にある奈良山丘陵。現在は住宅街となっていますが、奈良時代にはここに、平城宮・京の瓦を生産する瓦工場が集中していました。なかでも丘陵南西にある中山瓦窯(がよう)は、最大の瓦工場で、平城宮の大極殿や東区朝堂院などの重要な建物の瓦を生産していたことがわかっています。  1972年の発掘...
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(144)写真が遺す歴史

 写真による正確でわかりやすい記録は、文化財の調査研究に欠かせません。奈文研は文化財の調査研究にあたり、多くの写真を撮影し、学術情報として保存してきました。その数は37万枚にもおよびます。  奈文研による飛鳥地域の発掘調査は、今からちょうど60年前、飛鳥寺跡から始まりました。カメラやフィルムも...
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(143)役所名はなぜわかる?

 平城宮の中には、今の東京・霞が関の中央官庁街のように、国のさまざまな役所が置かれていました。たとえば、平城宮跡資料館がある場所には、馬を飼育する役所・馬寮(めりょう)がありました。また、遺構展示館の駐車場のあたりは、酒や酢を醸造する造酒司(ぞうしゅし)という役所でした。  このような役所名は...
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(142)東大寺東塔跡の調査(下)

 前回お話ししたように、奈良時代の東大寺東塔の基壇は、一辺24メートルほどの規模がありました。これを全国各地にある古代寺院の塔跡の大きさと比べてみましょう。  7世紀の塔の平均的な基壇規模は、およそ12メートルほどです。8世紀の国分寺では、相模(神奈川県)や美濃(岐阜県)の塔の基壇が大きく、2...
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(141)東大寺東塔跡の調査(上)

 奈文研では、2015年に、東大寺・奈良県立橿原考古学研究所とともに発掘調査団を組織して、東大寺の東塔跡の発掘調査をおこないました。  奈良時代の東大寺には、東塔と西塔という二つの巨大な七重塔が建っていました。1180年の平重衡の焼き討ちによって、これらの塔も焼けてしまいましたが、その後、少な...
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(140)平城京と難波京

 奈良時代の首都はどこ―? 答えはもちろん、平城京。  ですが、実は他に「副都」と言うべき都がありました。  それは、今の大阪市におかれた難波(なにわ)京。大阪城のすぐ南隣に遺跡が残る難波宮を核として、その周りに平城京と似た碁盤の目状の街並みが整えられていました。京内には四天王寺などの大寺院...
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(139)古代の軟弱地盤工法

 旧秋篠川は、平城宮の建設予定地の南西隅付近を北西から南東に蛇行しながら流れていました。平城京の造営時に、これを条坊に沿った直線的な河川に付け替えて運河に利用したのが西堀川、現在の秋篠川です。  その付け替えの大工事の痕跡が、奈文研の庁舎の建て替え工事に伴う発掘調査で見つかりました。  旧秋...
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(138)大仏殿より大きい大仏殿?

 今、日本一高いビルと言えば、あべのハルカス。でも、奈良にも世界に誇る巨大建築があります。そう東大寺大仏殿です。桁行(横幅)50メートル、梁(はり)行(奥行)50・5メートル、高さ46・4メートルの世界最大の木造建築です。  平安時代中頃の教科書『口遊(くちずさみ)』には、巨大建築として、「雲...
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(137)サクラの使い道

 サクラと言えば春を告げる花のイメージが強いですね。平城宮跡は、サクラが咲き誇るお花見スポットとしても有名です。  奈良時代にもサクラは好まれ、万葉集にサクラの歌が数多く残されています。さらに平城京の住民にとって、サクラは季節を問わずに身近な存在でした。それは、サクラの樹皮を道具に使っていたか...
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(136)日常の中の建築用語

 宿題を忘れないよう先生に「釘(くぎ)を刺された」けど、「豆腐にかすがい」。適当に「相槌(あいづち)」しつつ、「いの一番」に教室を飛び出します。さてここに出てくる釘・かすがい・槌は建築に使う道具・材料です。いの一番も建物の柱の位置を示す番付の一つで、番付は「い、ろ、は…」と「一、二...
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(135)平城京のお墓(2)

 前回は平城京に暮らす人々のうち、天皇や貴族・官人が亡くなった後、平城京の周辺の丘陵や山中に葬られたことを紹介しました。  官人の中には、遠い故郷に葬られた人もいたようです。因幡国(現在の鳥取県)出身の伊福吉部徳足比売(いふきべのとこたりひめ)は、和銅元年(708年)に藤原京で亡くなりましたが...
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(134)平城京のお墓(1)

◎天皇と貴族  ◆周辺の丘や山中に埋葬  奈良時代、平城京には5~10万人もの人々が暮らしていました。彼らが亡くなった後、たくさんのお墓が必要になったはずですが、一体どこに葬られたのでしょうか?  当時の法律では平城京内での埋葬は固く禁止されていました。このため、お墓は京外に造られました。...
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(133)古代の地盤改良

 皆さんが生活する家。家の下の地盤が軟らかいと、家の重さを支え切れずに家が沈み込んで傾くおそれがあります。  そこで、しっかりとした地盤につくりかえる地盤改良の工事をおこなう場合があります。この地盤改良工事、実は千数百年前からおこなわれていました。  特に、瓦葺(ぶ)き屋根の建物は、草葺きや...
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(132)朱雀門前でトンテンカン!

 平城宮の正面玄関である朱雀門。この門前は、外交使節団を送迎したり、国家的な儀式やイベントを行う広場のような空間でした。  その一角の発掘調査をおこなったところ、驚くべき発見がありました。計画的に配置された数多くの「炉」の跡が見つかったのです。  炉跡の脇には、赤く熱した鉄をたたいて整形する...
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(131)データベース連携の可能性

 みなさんはどんな字を書いていますか? 丸かったり斜めだったり、書く字は一人一人違ってとても個性的ですよね。  実は、昔の人が書いた字も、人や時代によって異なり、中には私たち現代人には読みにくい字も少なくありません。歴史を研究するためには、木簡や古文書の文字を正確に読み取らなくてはなりません。...
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(130)報告書とデータベース

 皆さんは、古墳や城跡などの遺跡を見学したとき、今までにどんな発掘調査が行われ、何が出土しているのか知りたいと思ったことはありませんか。  そんな時、その遺跡の発掘調査報告書を読めば、いろいろなことがわかります。でも報告書は発行部数が限られた専門書なので、普通の本屋さんでは売っていません。 ...
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(129)文化財とデータベース

 奈文研は、文化財に関する26種類のデータベースをホームページ上で公開しています。たとえば「木簡データベース」は、平城京や藤原京から出土した木簡を中心に、全国各地から出土した5万点近い木簡の情報を集めて分類したものです。木簡に書かれた漢字の一部や遺跡名などを入力して検索すると、瞬時に5万点の木簡...
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(128)元旦の飾り付け

 門松・鏡餅・しめ縄…。新年を迎える正月には、いろんな飾り付けをしますね。それは奈良時代の平城宮も同じでした。  元日の朝、平城宮に勤務する役人たちは、大極殿の前の広場に集まって、大極殿の天皇に新年の挨拶(あいさつ)をしました。これを元日朝賀といい、大極殿で毎年行われる重要な儀式...
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(127)お湯のないお風呂?

 お湯にどっぷり浸(つ)かり、サッパリ。お風呂は、日本人になじみ深いものです。  でも湯ぶねに肩まで浸かる入浴法は、江戸時代になってからのもの。古代の「風呂」は、現在のサウナに近く、湯気で身体を蒸す蒸し風呂のことでした。一方、お湯を汲(く)んで体を清める取り湯という方法もありました。  仏教...
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(126)漢字と仮名で文を書く

 現在、私たちは漢字と仮名を組み合わせ「私は花を買います」というように、文を書きます。では、まだ平仮名がなかった古代には、漢字だけでどのように日本語を表現したのでしょうか。  まずは、漢字の「意味」を使って、中国語風の語順で「私買花」と書く方式と、日本語の語順で「私花買」と書く方式が考えられま...
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(125)版築

 奈良のお寺には、古いお堂や塔が数多く残されています。よく見ると、そうした建物の多くは地面から一段高い土台の上に建っています。この土台を基壇とよんでいますが、基壇の多くは人工的に土や砂をつき固めて作ったものです。  土や砂をつき固める技術は版築とよばれ、古代中国で発明され、6世紀の終わり頃に日...
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(124)古代の弁当箱?

 最近、お弁当の具材でキャラクターを描く"キャラ弁"など工夫を凝らしたお弁当が増えていますね。さらなるこだわりを求める人々は、"曲物(まげもの)"、"曲げわっぱ"と呼ばれる木のお弁当箱を使うそうです。  実は、この曲物は平城京でも数多...
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(123)飛鳥資料館40周年

 聖徳太子や蘇我馬子が仏教の教えを学び、天智・天武天皇が我が国の政治の体制を整えていった、国家はじまりの地、飛鳥。今も、のどかな田園風景の中に古代の政治や祈りの場所が遺跡として残っています。  奈文研は、この飛鳥の歴史を土の中から掘り起こす発掘調査を昭和31年(1956年)から続けています。そ...
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(122)子供でにぎわう資料館

 発掘調査でわかったことや、文化財に関する最新の研究成果を市民のみなさんに公開するのも、奈文研の大切な仕事のひとつ。平城宮跡資料館(奈良市)、藤原宮跡資料室(橿原市)、飛鳥資料館(明日香村)は、奈文研が展示公開をおこなうための施設です。  研究所の展示施設、というと、とても難しくて、敷居が高い...
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(121)木簡の削屑(けずりくず)

 みなさんは、「木簡」と聞いてどんなものをイメージしますか? 手紙や荷札など色々あるかもしれませんが、文字が書かれた「板状の木札」という点は、おおよそ共通しているのではないでしょうか。  でも、実は、発掘調査で見つかる木簡のほとんどは「削屑(けずりくず)」と呼ばれるものなのです。クズなんて言っ...
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(120)木簡を見る

 みなさんは、本物の木簡を見たことがありますか? 奈文研の平城宮跡資料館では、毎年秋に「地下の正倉院展」で本物の木簡を特別に展示しています。今年は10月17日から11月29日まで。そこで今回は、木簡の見方をご紹介します。  平城宮木簡は、地下から届けられた天平びとの手紙です。全部漢字で書かれて...
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(119)見えないところを見る

 遺跡から出土する金属製遺物の中には、サビに覆われ、本来の形状がわからなくなったものや、複数の遺物がサビで互いにくっついてしまったものがあります。  こうした遺物の調査には、X線CTという装置が大活躍します。X線CTは、コンピューター断層撮影法と呼ばれ、物質を透過するX線の性質を利用して、対象...
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(118)奈文研の図書室

 奈文研には文化財関係の図書を収集、整理して、一般に公開する図書資料室があります。  ここには、日々、全国の都道府県や市町村、大学などから発掘調査報告書や学術雑誌、文化財関係の出版物が送られてきます。それを整理、データベース登録し、配架するのが図書資料室の仕事です。  蔵書数はなんと32万冊...
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(117)平城京の橋

 わたしたちが住む街中を流れる川、その上には橋がかかり、絶え間なく人や車が往来していますね。こうした光景は古代も変わりませんでした。  奈良時代の平城京、碁盤目のように走る道路が、川や運河を渡る場所には、木製の橋がかけられていました。  1982年、東堀川の発掘調査で、運河にかかる橋が見つか...
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(116)木の種類の調べ方

 木材は、私たちにとってとても身近な資源です。そのため、古くからさまざまな用途に木材が利用されてきました。平城京からも奈良時代の木製品や部材がたくさん出土しています。  では、発掘された木製遺物の木の種類は、どうやって調べるのでしょうか。  木にはいろいろな種類がありますが、種類によって木材...
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(115)古代ガラスの製法

 日本では、弥生時代や古墳時代の遺跡から、たくさんのガラス玉が発見されています。でもこの時代のガラスは、すべて輸入品、外国産のガラスでした。  国産ガラスの製造が始まるのは、飛鳥時代の7世紀後半になってからのこと。奈良時代にはお寺や仏像の装飾に、大量のガラス玉が使われました。そのガラスの作り方...
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(114)すごろく土器が見つかった

 平城宮・京からはコマ、さいころ、木とんぼなど、古代の人々が遊びに使ったさまざまな道具が出土しています。最近、また新たな発見がありました。古代の「すごろく」盤の発見です。  それは、平城京から出土した土器の内面に、点を並べて円を描き、それを6分割するラインを点と線で表現したものです。分割線の一...
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(113)出土場所の記録方法

 発掘調査で出土する土器や瓦などの遺物は、どこから出土したのか、その位置情報がとても重要です。  そこで私たち発掘調査員は、遺物が出土したら、すかさず出土場所に関する情報をカードに記入して、遺物を取り上げます。使うのは油性ペンと水に強く破れにくいカード。  例えば、ある出土遺物に付けられたカ...
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(112)平城京の運河

 みなさんもよく目にする道路を行き交うトラック、線路を駆け抜ける貨物列車、そして海を越えてやってくる飛行機や船。これらは物資を運ぶのに欠かせない輸送手段で、私たちの生活を支えています。  では、トラックや飛行機がなかった奈良時代、平城京ではどのように物資を運んだのでしょうか。  もちろん人や...
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(111)古代の休暇願

 体調が悪くて学校を休みたい。家族旅行で会社を休みたい。こういう時には、休むことを学校や会社に連絡しなくてはなりませんね。  奈良時代の役人たちも休暇が必要になると、「請暇解(せいかげ)」と呼ばれる休暇願を役所に提出して、許可をもらうことになっていました。  正倉院には、奈良時代の請暇解が、...
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(110)夏に活躍した氷室

 暑い日の、ひんやり冷たいかき氷。夏ならではの楽しみです。  夏に氷なんて、冷凍庫がある現代の特権かと思いきや、実は奈良時代の夏にも氷はありました。  冬に凍った池の氷を切り出して氷室の中に入れ、草で覆って断熱をし、夏まで保存していたのです。  氷室は朝廷が直接管理をしていました。一方、奈...
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(109)誤字脱字

 書き間違えには消しゴムで・・・。でも、墨で木に書いた場合、そんなわけにはいきません。古代の木簡のなかにも書き損じを修正した工夫のあとがみられます。  写真〈1〉は、何の文字に見えますか? そう、「大」の字。でも、左右の払いの間にうっすらと何か見えます。左払いは、太い線と細い線が二重に。どうや...
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(108)古代の学校行事

 運動会に文化祭、遠足に修学旅行。現代の学校には、さまざまな行事があります。では、平城京の時代は、どうだったのでしょうか。  平城京には、「大学」がありました。勉強の中心は、孔子の教えである「儒教」です。  この大学での代表的な行事といえば、釈奠(せきてん)。孔子とその弟子を祭る中国起源の儀...
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(107)戸籍と計帳

  いま、私たちは、生まれるとすぐに戸籍に登録されます。これにより、名前や生年月日、親子関係や本籍地などの情報がわかるようになっています。   皆さんは、こうした戸籍の制度の起源が、日本では1300年以上前までさかのぼることを知っていましたか? しかも、そんな昔に作られた本物の戸籍が、東大寺の...
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(106)平城京へ遷った寺院は?

 7世紀の飛鳥と藤原京には、数多くの寺院がありました。ところが710年に都が平城京に遷(うつ)ると、寺院の一部も新都に移転しました。よく知られているのが薬師寺、大官大寺、飛鳥寺の三つの寺院です。これらの寺院はいずれも四大寺といわれた格の高い寺院でした。四大寺の中では川原寺だけが飛鳥に残りましたが...
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(105)平城宮と百万塔

 天平宝字8年(764年)9月、ときの権力者、藤原仲麻呂が反乱をおこしました。この反乱をしずめた称徳天皇は、乱で亡くなった人々を悼み、また国家の安泰を願って、百万基もの木製の三重小塔を作らせました。これが百万塔です。完成後に奈良やその周辺の10のお寺に10万基ずつ安置されましたが、現在は法隆寺に...
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(104)古代のカレンダー

 みなさん、ゴールデンウィークはいかがでしたか? 今年は、秋にも大型連休がありますね。  過去のできごとを振り返るにも、今後の予定を立てるにも、あるいは、今日の日付の確認にも。カレンダーは、私たちの生活に欠かせません。  奈良の都においても、カレンダーは必需品でした。  当時は、月の満ち欠...
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(103)習書の文字

 漢字練習が今週末の宿題、という人はいませんか? 古代の役人も皆さんに負けないぐらい、一生懸命漢字の練習をしていました。 以前、「難波津の歌」での手習いをご紹介しました。今回は同じ文字の「繰り返し練習」の紹介です。  写真の木簡では、ぎっしりと、同じような漢字を繰り返し練習しています。この中で...
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(102)大極殿 なぜ二つある?

 大和西大寺駅から近鉄奈良駅へ向かう電車に揺られていると、左手の遠方に第一次大極殿が見えてきます。この建物は、2010年の平城遷都1300年を記念して奈良時代の姿に復元された平城宮を代表する建物です。  でも、「第一次」とはどういう意味でしょうか。「第二次」よりも前のものという想像はつきますが...
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(101)和同開珎の読み方は?

 和銅元年(708年)に発行され、平城京を中心に広く使われた和同開珎。その読みは「わどうかいほう」? それとも「わどうかいちん」?   教科書ではどう読まれているのか、昨年発行の高校日本史の教科書を調べてみました。  その結果、「わどうかいちん」と振り仮名をつけたものが5冊、「わどうかいちん...
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(100)変わった人名

 去年生まれた赤ちゃんに最も多くつけられた名前は、男の子が「蓮」、女の子が「陽菜」だそうですが、人の名前は、時代によって流行(はや)り廃りがありますよね。  奈良時代の人々の名前は、どのようなものが多かったのでしょうか? 平城京・宮跡で発掘された木簡に書かれた名前を集めてみると、男性では「~麻...
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(99)硯の種類

 平城宮の役人たちの日常業務は、主に文書や帳簿づくりでした。彼らにとって、墨と硯(すずり)と筆は、なくてはならない大切な文房具でした。  今回は硯の種類を見てみましょう。  現在私たちは、四角い形の石の硯を使っていますが、奈良時代は須恵器製の丸い形の硯が一般的でした。これを「円面硯(えんめん...
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(98)ウンチの話

 平城宮の役所が集中している場所を発掘していた時の話です。同僚が直径60センチほどの小穴を掘ってみると、えも言われぬ色をした土の中から、ウリのタネや割り箸の様な木(クソベラ)がたくさん出てきました。もしかしてと思い、専門家に分析をお願いしたところ、多量の寄生虫の卵殻が見つかり、「間違いなくウンチ...
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(97)渤海との交流

 古代の対外交流といえば、遣唐使がまず頭に思い浮かぶでしょう。でも実は、それよりはるかに多くの交流が、日本海の対岸に位置した渤海(ぼっかい)国との間でおこなわれていました。正式な使節の往来だけでも、およそ200年の間に、日本から13回、渤海からは34回を数えます。  そうした交流の本来の目的は...
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(96)平城宮を囲む大垣の構造

 「宮垣未(いま)だ、ならず」  平城京遷都から1年半ほど経ても、平城宮を取り囲む大垣と呼ばれる塀がまだできないことを記した和銅4年(711年)9月のことばです。ため息すら聞こえてきそうです。  平城宮に先立つ藤原宮にも、大垣は巡っていました。その総延長は約3・7キロ。平城宮では約...
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(95)紙と木の使い分け

 墨で文字が書かれた木片を木簡と呼びますが、なぜ紙のほかに木簡が使われたのでしょうか。  木は紙に比べると丈夫で、雨にも強く、何回も削って修正・再利用できるという長所があります。  この特性を生かして、荷物を保管したり輸送する時に、付け札や荷札として木簡が使われました。これらの木簡の多くには...
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(94)遺跡の年代決定法

 「奈良時代の遺跡です」「3時期の建物跡が見つかりました」……。さて、発掘調査では遺跡の年代をどのように決めているのでしょうか。  まず、遺跡には何重もの土の層、「土層」があります。自然に堆積した土層では、下の層ほど古いという地層の法則があります。  次に、遺構の...
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(93)平城京の住民とお金

 平城京の住民にとって、お金はとても身近なものでした。お金で買い物をし、お金で税を納め、そして、お金の貸し借りも行われていました。  正倉院には、奈良時代の借金の証文が数多く残っています。借りたのは写経生たち。貸したのは、彼らの勤め先である造東大寺司の写経所です。金額はさまざまですが、おおむね...
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(92)日本の都と新羅の都

 みなさんは「都城」というと、どのようなかたちを想像しますか。藤原京、平城京、平安京、日本の古代の都はどれも四角いかたちをしています。  このようなかたちは中国の都をまねたもので、日本だけでなく中国周辺の国々に広く採用されました。これはかたちだけでなく、律令という法律にもとづく中国式の国家体制...
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(91)恭仁京遷都と平城還都

 今日の私たちにとって、首都の移転は縁のないことのように思えます。ところが、奈良時代には5年間に4回も都が移った時期がありました。  740年、聖武天皇は平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都しました。しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮(大阪市)、翌745年には紫香楽宮(滋賀...
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(90)漆を運んだ壺

 漆器は日本を代表する優れた工芸品のひとつです。漆の利用は縄文時代に始まり、接着剤や塗料として長く使用されてきました。  古代になると、仏教文化の広がりとともに、美しく光沢のある漆の需要が高まり、漆は次第に入手困難な高級品となりました。このため、政府は全国に漆の栽培を奨励し、漆液を税として中央...
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(89)平城京の地番表示

 現代の私たちの住所は市町村名と丁番号の数字で表記されます。平城京の時代はどうだったのでしょう。碁盤の目状に区画された平城京では、「条」「坊」「坪」の数字で場所を表示できました。  平城京では東西・南北方向の大路を約530メートルの等間隔の方眼上に配置していました。東西方向の大路で区切られた範...
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(88)同笵瓦から何がわかるの

 美しい蓮華(れんげ)文や唐草文で飾られた軒丸瓦や軒平瓦。これらの文様は、型に粘土を詰めて作ります。型を使うと、同じ文様の瓦を大量生産できるのです。軒瓦の型を「笵(はん)」といい、同じ笵で作った瓦を「同笵瓦」と呼びます。  一見同じ文様に見えても、同笵瓦とは限りません。同笵瓦の決定的な証拠とな...
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(87)平城京の旧石器時代

 みなさんは奈良盆地にいつごろから人が住み始めたのか知っていますか?  それは平城京が造られるはるか昔、3万年以上も前の旧石器時代です。なぜこの時代に人が住んでいたことが分かったのでしょう。それは、約3万年前の姶良火山(今の鹿児島湾北部)の大噴火によって降り注いだ火山灰層の下から、石器が散らば...
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(86)古代ののこぎり

 飛鳥時代から奈良時代にかけては、寺院や宮殿、都の造営が相次ぎ、まさに建設ラッシュの時代でした。そこでは膨大な量の木材と、それを加工するためのさまざまな道具が使われたことでしょう。  ところが不思議なことに、これまでに藤原京や平城京からは、ほとんど大工道具が出土していません。古代の大工道具につ...
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(85)落書き(下)―馬と鹿

 神社に行くと、馬が描かれた木の板に、家内安全や受験合格、恋愛成就など様々な願い事を書いた「絵馬」が奉納されています。  こうした絵馬の起源は、古代にさかのぼります。中でも平城京二条大路の溝から出土した奈良時代の絵馬は、ベンガラや白土が塗られた彩色鮮やかなもので、専門の絵師によって描かれたと考...
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(84)落書き(中)―猿の絵

 前回の「役人の顔」のラクガキに引き続き、今回は猿の絵のラクガキを紹介しましょう。  このラクガキは、奈良時代の前半に栄華をきわめた長屋王の邸宅跡から出土したものです。土師器(はじき)の皿の外面に、文字や筆をならした墨線とともに、5匹の猿が描かれています。  猿の絵は、手足を含めた全身像のほ...
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(83)落書き(上)―役人の顔

 古代の都、藤原宮や平城宮の発掘調査では、役所の文書や帳簿として使われた木簡が数万点出土しています。当時の役人たちが、背筋を正して机に向かい、仕事に励む姿が目に浮かぶようです。  ところが、彼らが筆で書いたのは、字ばかりではなかったようで…。仕事の合間に描いたとみられる、ラクガキ...
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(82)材木の輸送

 古代の宮殿や寺院の造営には大量の材木が使われました。トラックもない時代に、大きくて重い材木をどのように都まで運んだのでしょうか。万葉集には、近江国(今の滋賀県)の田上山から伐(き)り出した檜(ひのき)材を筏(いかだ)に組み、宇治川から木津川を経由して藤原宮まで運んだ様子が歌われています。材木の...
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(81)古代の薬

 古代の人々にとって、薬は非常に高価で、現代ほどに生活に身近なものではありませんでした。古代の都を発掘調査すると、天皇や貴族のすまいの近くや、役所付近でしか、薬を用いた様子を確認できません。平城宮には内薬司(ないやくし)や典薬寮(てんやくりょう)という薬を扱う役所があり、医師や薬剤師のような専門...
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(80)南島の木簡

  鉄砲伝来の地として有名な種子島。この島には古来、海の向こうから様々な文物がいち早く到来しました。一方それは、島が地理的に日本のはずれに位置することも意味します。奈良県に暮らす私たちにとって、訪れる機会はあまり多くないかもしれません。   でも、奈良時代、平城京と種子島の間には、人や物の行き...
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(79)みんなに知らせる告知札

 人通りの多い場所で、人捜し、ペット捜しのポスターやチラシを目にしたことがありませんか?  私たちはこのようにして目撃情報を集めますが、古代はどうだったのでしょうか。  実は、古代の人も同じようなことをしていました。皆に告げ知らせるという意味の「告知」と書いた告知札が使われていたのです。今ま...
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(78)土器の生産地と平城京

 平城京で日常的に使用された土器には、素焼きで赤っぽい色の土師器(はじき)と、窯で焼かれた灰色の須恵器があります。このうち須恵器は、大阪府や奈良県の窯で焼かれたもののほかに、遠く愛知県や岐阜県でつくられ、都に運ばれてきたものもありました。  一方、土師器は、その多くが平城京の近郊でつくられたと...
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(77)奈良三彩と唐三彩

 アメリカ版のドラえもんは、ピザが好物なんだとか。他の文化を取り込む時に、自国の文化に合うようにアレンジすることは、古代からよく見られることです。  中国では、紀元前にはすでに土器の表面に、釉薬(ゆうやく)を塗る技術がありました。これが日本に伝わるのは、飛鳥時代。朝鮮半島の渡来人から技術を学び...
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(76)最大最小の木簡

 奈良時代の役人たちが仕事で字を書くために使った木簡。書かれている内容に目が行きがちですが、今回は木簡の大きさに注目してみましょう。  木簡には用途に応じて色々なサイズがありました。おおざっぱにいうと、片手で持って字を書きやすい長さのものが多いと言えるでしょう。  では、平城京で出土した木簡...
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(75)フォトマップって何

 漢字で書けば写真地図。カタカナよりわかりやすいでしょうか。最近では、写真と撮影位置情報を連動させ、インターネットの地図上で表示したものもフォトマップと呼ぶようです。  しかし、奈文研が取り組むフォトマップは少し違います。極彩色壁画で有名な高松塚古墳とキトラ古墳では、石室内部をデジタルカメラで...
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(74)姿を現した西の大寺(下)

 西大寺の境内を散策すると、本堂の目の前に東塔の基壇があります。それでは創建時の金堂はどこにあったのでしょうか。奈良時代の財産目録である『西大寺資財流記(るき)帳』をみると、西大寺には薬師金堂と弥勒(みろく)金堂という二つの金堂があり、その周囲を回廊がめぐっていたことが記録されています。しかし、...
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(73)姿を現した西の大寺(上)

 小学校の教科書にも出てくる東大寺に比べると、西大寺は少し影が薄いかもしれません。とはいえこの西大寺、奈良時代後半に称徳天皇によって造営された当時は、東大寺に並ぶ平城京の西の大寺でした。  その壮大な奈良時代の伽藍(がらん)は、度重なる火災や災害によって次第に失われ、現在の主要な建物は、江戸時...
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(72)移築された第一次大極殿

 平城京遷都1300年にあたる2010年に復元された平城宮第一次大極殿。その歴史が今回のテーマです。第一次大極殿が実際に平城宮にあったのは、平城京遷都(710年)直後から、恭仁京(くにきょう)遷都(740年)までのわずか30年間ほどのことでした。  恭仁京遷都にともなって、平城宮の大極殿が移築...
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(71)胞衣壺

 胞衣(えな)とは、はじめて聞く言葉かもしれませんが、お母さんの胎内で赤ちゃんに栄養を補給する胎盤のことです。出産のとき、赤ちゃんより遅れて出てきます。昔の日本では、胎盤を子供の分身と考え、大切に扱う風習がありました。  壺(つぼ)や杯などの土器の中に胎盤をおさめ、蓋をして地中に埋めた胞衣壺が...
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(70)奈良時代の遊びとスポーツ

 今年はサッカーの祭典、FIFAワールドカップで盛り上がりましたね。古代にもサッカーに似た蹴鞠(けまり)という競技がありました。神事として奉納される様子をご覧になった方もいらっしゃることでしょう。革製の鞠を地面に落とさないように蹴りあう競技で、蹴り続けた回数を競います。大化改新で中大兄皇子と中臣...
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(69)平城京と唐長安城

 東アジアに君臨した大帝国、唐の先進文化は、周辺諸国に大きな影響を与えました。8世紀に入ると、日本も長らく中断していた遣唐使を再開し、唐の文化の積極的な吸収に努めました。  そのよい例が都づくりで、平城京は唐の都、長安城がモデルといわれています。両者の構造はとても良く似ていて、碁盤目状の直線道...
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(68)隼人の盾

 皆さんは奈良文化財研究所のシンボルマークをご存じですか? 大極殿や飛鳥美人? はたまた鹿のマーク?  答えは、赤白黒の3色で描かれた逆S字の下にギザギザ文様のあるマークです。これは平城宮跡出土の「隼人の盾」の文様をデザイン化したものです。出土品の文様と平安時代の史料に書かれた隼人の盾の特徴が...
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(67)平城薬師寺と本薬師寺

 皆さんは奈良に薬師寺が二つあったことをご存じですか? 観光客で賑(にぎ)わう西ノ京の薬師寺は、710年の平城京遷都後に建立されたものです。実は、これに先立つ藤原京の時代にも、同じ名前のお寺が橿原市に建てられていました。この二つの薬師寺を、平城薬師寺と本薬師寺と呼んで区別しています。現在、本薬師...
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(66)奈良時代の「カギ」

 家の玄関に鍵をかけていますか。自分の部屋や机の引き出しにも、鍵をかけている人もいるでしょう。  鍵の歴史は古く、奈良時代には、海老錠(えびじょう)と鑰(やく)と呼ばれる2種類の「カギ」がありました。  海老錠は、海老のように曲がった錠前で、左右に開く扉の把手(とって)などに取り付けます。バ...
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(65)漆紙文書

 英語のjapan(ジャパン)は、日本を意味すると同時に、漆や漆器を意味します。漆器は日本を代表する工芸品として世界的に有名です。  日本で漆の利用が始まったのは縄文時代のこと。漆は産出量の少ない貴重品で、漆の木に刃物で傷をつけ、にじみ出た樹液をかき取って採取します。奈良時代になると、全国的に...
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(64)瓦の裏にあるヒント

 長いアゴ、短いアゴ。人の顔の話ではありません。私たち奈文研の研究員は、瓦の文様がある部分を顔と呼んでいます。これに対してアゴ(顎)は、軒平瓦の裏面にある段差のこと。文様をつける顔の部分を幅広くとるために粘土をつぎ足すなどして作ったもので、横からみると人でいう顔と顎の関係になっています。  ア...
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(63)鬼のいる鬼瓦、いない鬼瓦

 お寺や古い建物の屋根を見上げた時に、恐ろしい形相の鬼瓦と目が合ってどっきりしたことはないですか。突き出た角に見開いた目、大きな口から覗(のぞ)く鋭い牙、その表情は迫力満点で、いかにも災いから建物を守ってくれそうです。  鬼瓦は明日香村の奥山久米寺や豊浦寺など、7世紀前半のお寺にすでにあります...
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(62)古代の大学

 次のうち、平城京の時代にもあった学校は、どれでしょうか。〈1〉小学校〈2〉中学校〈3〉高校〈4〉大学―。  答えは〈4〉の大学です。平城京には、貴族の子どもたちを役人に養成するための「大学」とよばれる機関がありました。当時の法律では、13~16歳で入学して、9年以内に卒業すると定められており...
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(61)大極殿のあしもと

 平城宮にそびえ立つ第一次大極殿、この連載にもなんども登場しおなじみですよね。その復元にあたっては、発掘調査の成果や、現存する古代の建築、さらには歴史資料などに基づいて、研究員が議論を積み重ね、古代の姿を描くことができました。  しかし、実際に建物として復元するためには、もう一つの大きなハードルがあ...
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(60)古代の省略文字

 左の木簡の写真、漢字に交じってカタカナの「ア」や「マ」のような字がみえますね(矢印部分)。でもこれはカタカナではありません。「部」という漢字を省略した文字なのです。  古代人の名前は、左の木簡に書かれた物部(もののべ)や漆部(ぬりべ)、日下部(くさかべ)のように、〇〇部という姓が多く、「部」...
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(59)何年たつと文化財?

 トン、トン、トン。  奈良の薬師寺には、連日、東塔の解体修理の槌(つち)音がひびいています。奈良時代に建てられた東塔は千二百数十歳。各時代の人々が大切に守り続け、現在は日本を代表する文化財建造物として国宝に指定されています。  ところで、建造物は何年たつと文化財になるのでしょうか。  答...
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(58)古代の「うた」(下)

 古代の「うた」には、漢詩と和歌の2種類がありました。前回は漢詩のお話をしましたので、今回は和歌について考えてみましょう。  和歌とは「やまとうた」のことで、五・七・五・七・七と句をつらね、31音でつづった短歌に代表されます。その歴史は古く、飛鳥・奈良時代の和歌を集めた『万葉集』には、4500...
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(57)古代の「うた」(上)

 古代の「うた」には、漢詩と和歌の2種類がありました。このうち今回は皆さんにあまりなじみのない漢詩について考えてみましょう。  わが国では、7世紀後半から漢詩が作られるようになったと言われています。明日香村の飛鳥池工房遺跡からは、漢詩が書かれた7世紀後半の木簡が出土しています。1句が5文字で4...
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(56)庭園に思い描くパラダイス

 世界的によく知られる「日本庭園」。その起源は古代にさかのぼります。平城宮や平城京の跡からは、自然風の形をした池をもつ奈良時代の庭園の跡が数多く発掘されています。庭園の中心となる池は、大海に見立てられ、岬や入り江が連なり、石組みや島をもつものもありました。小石が敷き詰められた緩やかな斜面の池辺が...
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(55)木とんぼとコマ

 1984年、平城宮の内裏の東を流れる奈良時代後半の水路から、現在の竹とんぼによく似たプロペラ形をした遺物が出土しました。素材は竹ではなくヒノキであったため、竹とんぼならぬ「木とんぼ」と命名されました。中央の小さな孔(あな)をはさんで、風切り用の羽根を左右対称に削り出す点は、さながら現在の竹とん...
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(53)描かれたのは鬼か疫病神か

 奈良時代には、少し不思議な風習がありました。土器に墨で人の顔を描き、何かのまじないをおこなってから川などに流す、という風習です。このときに用いた土器を、「人面墨書(じんめんぼくしょ)土器」と呼んでいます。使われた土器は煮炊き用の土師器(はじき)の甕(かめ)が多く、甕のかたちはほぼ球形なので、人...
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(54)平城京のメインストリート

 近鉄電車で大和西大寺駅から近鉄奈良駅方面へ向かうと、左手やや遠方に平城宮の正殿である第一次大極殿、右手に平城宮の正門である朱雀門の復元建物を見ることができます。この二つの建物は、南北に一直線に並びますが、奈良時代には朱雀門からさらに南に真っすぐ延びる朱雀大路というメインストリートがありました。...
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(52)土器に書かれた文字

 平城宮跡から出土する土器の中には、墨で文字を書いたものがあります。これを墨書土器と呼んでいます。  書かれているのは、役所名や官職名、人名、数字、器の名前や内容物などさまざまです。また、同じ字を繰り返し練習したものや、落書き、意味不明の記号などもあります。  この中で、役所名の書かれた土器...
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(51)一日の労働の対価

  大勢の人がつどう都・平城京では、たくさんの、そしてさまざまな仕事が必要とされました。街に出てみましょう。工事現場で働く人々や荷物の運送業者、仏像造りの職人から洗濯を請け負う女性まで、本当にいろいろな人がいます。  奈良時代、労働者たちには給料として、お米や塩などの食料が支給されま...
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(50)X線CTで年輪をはかる

 奈文研には、文化財に使われた木がいつ伐(き)られたものか、また昔の自然環境を年輪から調べる研究室があります。この年輪年代学の研究法については、第22回「探検!奈文研」で紹介しました。今回は年輪を測る最新装置を紹介します。  木でできた文化財の中には、彩色や加工などで表面の年輪が見えないものも...
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(49)みほとけの年輪

 仏像の素材は様々です。なかでも木を用いた木彫仏は日本人に好まれたようで、平安時代以降の仏像のほとんどは木彫像です。年輪年代法はこうした木彫像にうってつけの調査手法です。  具体例を挙げましょう。奈良・東大寺南大門の仁王像は、2000以上もの部材を組み上げた巨大な木彫像です。25年ほど前、解体...
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(48)平城京の人口と役人たち

 現代の都市は、人口が多いほど、あるいは人口密度が高いほど、大きな都市とみなされます。奈良県最大の都市である奈良市の人口は、現在36万人です。  では、奈良時代最大の都市、平城京の人口は何万人だったのでしょうか。古くは20万人と推定されましたが、最近では5~10万人と考えられています。  そ...
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(47)古代のボーナス-季禄の品々

 今日のサラリーマンのボーナスは、明治時代に始まったとされています。ところが、藤原宮や平城宮で働く古代の役人にも「季禄」とよばれるボーナスがありました。  律令の規定によると、季禄は年に2回、2月と8月に支給されました。支給されたのはあしぎぬ・綿・布・鍬(くわ)・糸・鉄といった6種類の物品で、...
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(46)文字の上手下手

 奈良時代のお経。1点1画が丁寧に書き写され、大きさもほぼ均等で、まるで活字のようです。奈良時代の人たちは、みなこのように美しく整った字を書いたのでしょうか。  全国各地から平城宮へ運ばれた荷札の文字をみてみましょう。写真1の木簡は、お経のように整った文字の木簡です。でも、このように上手な文字...
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(45)写真も文化財

 奈良にはたくさんの「文化財」がありますが、その種類や材質、形状、大きさなどは実に様々です。そうした文化財をわかりやすい姿で写しとめる方法が「文化財写真」です。  奈文研には文化財写真の撮影を担当する職員がいます。それが私たち文化財写真のカメラマンです。私たちは、写真を通して文化財の形や質感が...
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(44)役人の勤務時間

 古代の役人の朝は早く、夜明け前に家を出て平城宮へと通勤しました。  律令をはじめとする決まりによると、朱雀門などの宮の外門は、日の出の20分ほど前に開かれました。宮内の朝堂院の門が開くのは、さらに1時間あまり後で、夏至で午前6時半頃、冬至でも7時50分頃に仕事が始まりました。ずいぶん早いです...
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(43)土馬

 土馬とは、馬の形をした土製品です。平城京では、道路の脇を流れる溝や運河から出土することが多く、水に関わる祭りに使われたようです。一体何のために使われたのでしょうか。  土馬の用途については二つの説があります。一つ目は、恐ろしい災厄をもたらす疫病神を土馬に乗せて、穢(けが)れとともに水に流した...
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(42)ケガレや災いを払う人形

 人形と書いて、ここでは「ひとがた」と読みます。文字通り人間の全身をかたどったもので、紙や木、金属などで作られたものがあります。  むかし、平城京に暮らした人々は、病の原因となる穢(けが)れや災いを払うために、あるいは呪いをかけるために、木や金属の人形を用いました。なでたり息を吹きかけたりして...
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(41)古代のものさし

 「25メートル平泳ぎ」「18センチのクツ」。身の回りの長さは、単位が決められていることで、誰もがどれくらいかを理解することができます。  日本で初めて長さを共通の単位で定めようとしたのは藤原京の時代で、尺・寸(尺の10分の1)を用いました。尺や寸は1958年に公的な単位としての使用が禁止され...
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(40)庶民の家と貴族の家

 広大な敷地に立派な建物。著名人の豪邸を紹介するテレビ番組を、羨ましく眺めることがあります。  平城京の住民の宅地は、国から身分(位)に応じて支給されました。  位の高い貴族の邸宅は、庶民とは桁違いの規模を誇っていました。奈良時代前半の権力者、長屋王の邸宅は、平城宮に近い場所にあり、敷地は推...
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(39)湧き出る井戸

 人間が生活する上で飲料水の確保は欠かせません。縄文時代までは、川水や自然湧水を生活用水に利用していましたが、弥生時代になると地下水をくみ上げる井戸の利用が始まります。  藤原京や平城京が建設され、この人工都市に数万の人々が集住しはじめると、大量の飲料水が必要になりました。上下水ごとにインフラ...
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(38)船形代の願い

 平城宮・平城京では、木製の船形代(かたしろ)(模造品)が出土することがあります。人形や馬形と違って数は少ないのですが、全国各地の遺跡からも出土しています。いったいこの船形代、何のために使ったものでしょうか?   奈良時代の歴史書『続日本紀』には、遣唐使が春日山の麓で、航海の無事を祈ったことが...
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(37)古代のスーパーマーケット

 「平城京スーパーマーケット。営業時間は正午から日没まで。取り扱い商品は食料品に文房具、薬となんでもあるよ・・・」  奈良の都・平城京にも市場がありました。場所は今の奈良市東九条町・杏(からもも)町付近と、近鉄九条駅の東方にあり、それぞれ東市、西市と呼ばれていました。  これらの市場は国営で...
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(36)現代に生きる平城宮

 平城宮は現代にも生きています。ただし、その多くは土の中、地下に眠っています。奈文研では発掘調査を行い、地下にさまざまな建物の痕跡が残っていることを明らかにしてきました。  しかし、地下に残っているのは柱の穴や、柱を立てた礎石など、建物の基礎の部分にすぎません。私たち研究者が「1300年前の建...
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(35)古代のトイレは

 昔のトイレといえば、汲(く)み取り式の「ボットン便所」のイメージが強いでしょう。ところが、古代にはすでに水洗トイレがありました。  藤原京や平城京では、道路脇を流れる溝を自宅に引き込み、水流の上で用を足したと考えられる遺構が見つかっています。  さらに、藤原宮の官庁街からは、幅5メートルの...
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(34)奈良と世界遺産

 「世界遺産」ということばを聞いたことがありますか。今から40年ほど前に、世界の国々が協力して、人類にとって価値がある文化遺産・自然遺産を保護するために作られた国際的な制度です。  世界遺産の数は、現在、981件。日本には17件があり、奈良県内にも三つの世界遺産があります。  その一つ「古都...
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(33)科学的な解読法

 木簡のなかには、時たますごい照れ屋さんがいます。土の中から出てきて、1300年ぶりに空気に触れると、あっという間に真っ赤、ではなく真っ黒になってしまうのです。  写真の木簡も、そんな恥ずかしがり屋の一人。巻物の軸として使われたもので、小口にタイトルが書かれています。けれど、墨の文字は黒いから...
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(32)平城京の街路樹

 広大な平城京には縦横に直線道路が設けられ、碁盤目状に区画されていました。主要道路である大路の幅は14~37メートルほどでしたが、平城京最大の朱雀大路は、長さが4キロ弱、幅は75メートルもありました。大阪の御堂筋の長さが4キロ、幅が44メートルですから、1300年前の大路がいかに大きかったがわか...
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(31)役人の休日

 今日は日曜日。休日です。みなさん、どうやって過ごしますか?  私たちは現在、月火水木金と5日働いて(あるいは学校に通って)、土日と2日休んでいます。奈良の都の役人は、何日働いて、何日休んでいたのでしょうか。  当時の法律では、5日働いて1日休む、と定められていました。古代の1か月はおおよそ...
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(30)古代の計量カップ

 みなさんの家の台所にある計量カップ。お米を炊く時や料理の時に、なくてはならない道具ですね。  奈良時代にも同じような計量カップがありました。それは下の写真のようなコップ形をした須恵器です。底に低い台が付いたものが多く、墨で「二合半」や「四合」と、土器の容量を書いたものがあります。  現代の...
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(29)柱穴を掘る

 スクープです。古代人が柱を立てるための穴を掘る姿を捉えました。  できるものなら、タイムマシーンに乗ってこんな写真を撮ってみたいものですが、本当は古代人に扮(ふん)した奈文研の研究員です。しかし柱を立てる穴は本物、平城宮第一次大極殿を囲む回廊の南面に建つ楼閣の巨大な柱穴(ちゅうけつ)です。 ...
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(28)古代の食事情

 写真の骨は、真鯛(まだい)の主上顎骨(しゅじょうがくこつ)という頭の骨です。藤原宮の造営時に掘られた運河に棄(す)てられていました。約2センチ・メートルの小さな骨で、運河跡の土をフルイにかけて見つかりました。  この骨を顕微鏡で観察したところ、包丁で切断した痕跡を確認できました。どうやら真鯛...
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(27)平城宮の警備

 平城宮の正面中央に開く朱雀(すざく)門。平城遷都1300年祭で、この門を警護する衛士隊(えじたい)の姿が再現されたのを覚えている方もいると思います。今回は平城宮の警備の話です。  奈良時代の平城宮は、周囲を高さ6メートル近い築地塀(ついじべい)で囲まれ、内部も施設ごとに塀で区画されていました...
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(26)掘らずに遺跡を探る(下)

 土の中は、人間の目が物を見るために必要な光を通すことができません。その代わりに地中を通ることのできる電気や振動を使ったり、地中のものが発する磁気を測定することで、土の中の様子を探ろうというのが、物理探査と呼ばれる方法です。  具体的には、地中に電気を流して抵抗を計る電気探査、振動の伝わりを計...
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(25)掘らずに遺跡を探る(上)

 土の中に埋もれている遺跡。その中身を探るにはどうすればいいでしょう?  一番確実な方法は土を掘ってみること。そう、発掘です。昔の人々の暮らした跡や使った道具を掘り出す発掘は、わくわくする作業です。  でも、遺跡は一度掘り返すと、同じ状況には二度と戻りません。歴史がたくさん詰まった大切な遺跡...
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(24)土器の形と食事法の変化

 古代の人たちはどのような食器を使っていたのでしょう。  古代には木製や金属製の食器もありましたが、最も広く使われたのは土器でした。飛鳥・奈良時代の土器をみると、20年ほどのサイクルで形や作り方が微妙に変化しています。こうした変化の特徴を手がかりに、奈文研は遺構などの年代を測るモノサシとして...
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(23)日本の遺跡数はいくつ?

 日本全国に遺跡はいくつあるのでしょうか。2013年3月に文化庁が発表した最新のデータによると、その数、実に46万5021か所。5年前にくらべ約7700か所も増えました。単純計算で、1県あたり約1万か所の遺跡があることになります。日本の国土面積から計算すると、1平方キロ・メートルあたりの遺跡数は...
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(22)年輪から知る年代と気候

 木の切り株に見えるバウムクーヘンのようなしま模様――。そう、年輪のことは皆さんよく知っていますよね。奈文研には、年輪を調べる研究室があります。文化財を扱う研究所なのに、不思議だと思いませんか?  それは、年輪を調べることで、その木が生えていた時代の気候変動や、木が伐採された年代を知ることがで...
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(21)古代の遺跡破壊

 平城宮跡(奈良市)の北端に小山のように残る市庭(いちにわ)古墳。この古墳は本来、全長253メートルの巨大な前方後円墳でした。平城宮の建設時、宮の敷地に入る前方部が削られ、濠(ほり)も埋め立てられ、後円部の一部だけが残されました。  同じく平城宮跡の中にあった神明野(しめの)古墳。これも全長1...
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(20)役人の手習い

 古代の役所では日々、様々な文書が作られていました。もちろんパソコンなどはありませんから、すべて手書きです。役人たちには、文字を正しく美しく、書きこなす能力が求められました。  平城京や藤原京・飛鳥地域の発掘調査では、彼らが文字の練習をした、手習いの木簡(墨で文字を書いた木札)が、たくさん見つ...
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(19)地を鎮める祭り

 皆さんは「地鎮祭(じちんさい)」を知っていますか? 家を建てる時に、土地の神様を鎮(しず)め、その許しを得るための祭りです。地鎮祭は今でも広く営まれていますが、その始まりは、およそ1300年前の藤原京の時代にさかのぼります。今回は、古代の地鎮祭のお話です。  古代の人々は、神様を怒らせると、...
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(18)平城宮の瓦作り

 屋根に瓦をふいた家は現在、普通に見られます。しかし奈良時代には、瓦は貴重で、瓦ぶきの建物は、宮殿や寺院、役所に限られていました。  中でも奈良時代の平城宮(奈良市)では、膨大な量の瓦が使われました。2010年に復元された第1次大極殿にふかれた瓦は、なんと10万枚にも上ります。平城宮全体では、...
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(17)奈良の文化的景観

 奈良らしい風景。それは大きな寺院があって、その前に鹿のいる風景だけではありません。  例えば、柿の木や梅が谷間を埋める五條市の風景、茶せんの材料となる竹林が風に揺れる生駒市高山の風景、そうめんを寒干しする桜井市の冬の風景など、個性豊かな風景が県内各所に見られます。  このように、地域に住ま...
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(16)荷札のささやき

 次の遠足は、歩いて東京に行くことになりました――。なんて学校の先生が言い出したらどうします?  でも、電車も飛行機もなかった奈良時代、人々は全国から歩いて平城京にやってきました。それも税金を払うために。昔は税を、米や布などの品物で納めていました。しかも、それを運ぶのも税のうちでした。  平...
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(15)古建築の修理と保存

 県内には、世界最古の木造建造物である法隆寺金堂をはじめ、多くの文化財建造物があります。これらはどのようにして現在まで保存されてきたのでしょうか。  日本の古建築の最大の特徴は、木造だということです。建物は、柱や柱などをつなぐ部材からなり、クギや接着剤をほとんど用いず、お互いを組み合わせてでき...
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(14)馬を乗りこなす

 皆さんは平城宮跡資料館に行ったことがありますか。資料館の下からは、馬を管理する「馬寮(めりょう)」という役所の跡が発掘され、馬小屋や馬の水浴び場の痕跡が見つかっています。  奈良時代、馬は移動や運送に利用されましたが、最も重視されていたのは軍事力でした。このため、各地に国営の牧場が設けられ、...
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(13)すり減るまで大切に

 皆さんは靴を何足持っていますか。2足? 3足? 10足以上? 今、身の回りには、いろんな履物があります。スニーカーやブーツ、サンダル……。数え挙げればきりがありません。  でも奈良時代にあった履物は、木製の下駄(げた)と沓(くつ)、ワラを編んだ草鞋(わらじ)ぐらい...
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(12)非破壊分析

 遺跡から出土する遺物には、木製、鉄製、銅製、ガラス製など様々な材質のものがあります。中には、見ただけでは材質がわからないものもあり、金属製の遺物が土製と間違われていた例もあります。  これらの遺物は、土に埋もれている間に劣化が進んでいます。このため発掘後に保存処理が必要になりますが、金属と土...
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(11)人々に時を告げる

 私が勤める飛鳥資料館(明日香村)に、飛鳥時代の水時計である「漏刻(ろうこく)」の模型が展示されています。これは、明日香村の水落遺跡から発掘された水時計の遺構を基に、文献史料や現存する中国の古い水時計を参考にして復元したものです。  漏刻は、階段状に並べた複数の水槽を、銅の細いパイプでつなぎ...
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(10)瓦の文様

 古代の宮殿や寺院を発掘すると、瓦が大量に出土します。  価値のないものの例えに「瓦礫(がれき)」と言いますが、私たち考古学研究者にとって、瓦はとても大切な研究資料です。特にハスの花をかたどった蓮華(れんげ)文や、つる科の植物の唐草文で飾られた軒先の瓦は、昔から古美術品としても価値がありまし...
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(9)古代の倉庫

 毎年秋になると、奈良国立博物館で開かれる正倉院展を見学するため、多くの人が奈良市を訪れます。同展に並ぶ貴重な宝物を1300年間守ってきた倉庫について説明しましょう。  倉庫はちょっと地味な存在かもしれません。しかし、倉庫がなければ、大切な宝物や経典、米などを保管、収納することができません。 ...
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(8)蒸して食べる

 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を作る際にも欠かせない調理法です。  この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 ...
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(7)計画都市の建設

 奈良の都・平城京は、中国・唐の長安の都(現・西安市)をモデルに造られた計画的な都市でした。東西約5・8キロ、南北約4・8キロの広さがあり、3万~10万人の人々が暮らしていたと考えられています。この平城京は、東西・南北に規則正しく走る道路で、碁盤の目のように整然と区画されていました。  この...
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(6)南の島の考古学

 私は奈良文化財研究所の仕事のかたわら、年に1、2度のペースで南太平洋の島々に出かけています。同僚には「いいですね」とうらやましがられるのですが、実はそこで考古学の調査をしています。フィジーやタヒチ、ハワイといった島々に、いつ、どうやって人間が渡っていったのか、それを調べているのです。  かつ...
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(5)ミニチュアの世界

 奈良時代の土器に、5~10センチぐらいのとても小さいものがあります。私たちはミニチュア土器と呼んでいます。実際に使うにはあまりに小さく、何に使ったのか、よくわかっていません。  中でも特に多いのは、竈(かまど)、甕(かめ)、甑(こしき)の3点セットです。竈で火を炊いて、甕と甑で米などを蒸す、...
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(4)重さを量る

 「牛肉200グラムください」「3キロ太っちゃったわ」。こんな日常会話に出てくる「重さ」が、どれぐらいか想像できますか? 実は日本中どこに行っても、同じ単位を使って重さが量れることは、驚くべきことなんです。  日本人がモノの重さを量り始めたのは、少なくとも弥生時代に遡ります。ハカリにぶら下げた...
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(3)キトラの星

 壁画で有名な明日香村のキトラ古墳と高松塚古墳。その石室天井には、夜空に輝く星を描いた「天文図」が広がっていました。  星々は直径6ミリほどの金箔(ぱく)で表現され、それを赤い線でつないで星座に見立てています。両古墳とも、北極星を中心に28の星座を描き、東西には太陽と月を配置していました。 ...
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(2)お金の始まり

 私たちの生活に、なくてはならないお金。皆さんはお金の始まりについて考えたことがありますか?  まだお金のない物々交換の時代には、誰もが必要とするお米や布が、お金の役割をしていました。でもお米は重くて持ち運びに不便ですし、布は分割すると元には戻りません。また、ともに腐りやすく長期間の保存にも適...
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(1)遺跡なぜ地下に?

 遺跡は、なぜ地下に埋もれているのでしょうか。  埋まった理由は、様々です。洪水の土砂や、火山灰で埋まった遺跡もありますが、奈良市の平城宮跡や、橿原市の藤原宮跡は、別の理由で埋まりました。  理由の一つは、腐植土です。落ち葉や枯れ草などの植物が分解され、腐植土となって積もり、地下に埋もれてい...
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「探検!奈文研」について

 平成24年度に奈文研創立60周年を記念して、研究所の仕事を広く紹介する「探検!奈文研」を読売新聞奈良版に5回にわたって掲載し好評を博しました。  ここに掲載する「探検!奈文研」は、それに引き続いて平成25年4月から始まった連載第二弾で、奈文研の業務内容や、調査・研究を通して明らかになった平城...
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