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(134)平城京のお墓(1)

 天皇と貴族

 周辺の丘や山中に埋葬

 奈良時代、平城京には5~10万人もの人々が暮らしていました。彼らが亡くなった後、たくさんのお墓が必要になったはずですが、一体どこに葬られたのでしょうか?

 当時の法律では平城京内での埋葬は固く禁止されていました。このため、お墓は京外に造られました。

 天皇は平城京北方の陵(みささぎ)に葬られたことが分かっています。また、貴族や官人の中には、平城京周辺の丘陵や山中に葬られた人もいました。

 『古事記』の編纂(へんさん)で有名な太安万侶(おおのやすまろ)の墓は、平城京から10キロほど東に離れた山中にありました。火葬骨を入れた木櫃(びつ)と共に、安万侶の名前や官位・没年を書いた銅製の墓誌が納められていました。

 同じく墓誌から被葬者が分かった例では、平城京西方の生駒山の東麓で、大仏造立に尽力した僧・行基のお墓や、遣唐使の一員として唐へ渡った美努岡万(みののおかまろ)の火葬墓が見つかっています。

 一方、墓誌はありませんが、平城京の北・東・西を囲む丘陵や山中から、火葬墓が十数例発見されています。このように官人たちの中には平城京の近郊に葬られた例もありました。

 しかし、平城京で暮らしていた大勢の人々の墓としては見つかっている墓の数が少ないと思いませんか?

 次回は下級官人や庶民のお墓についてご紹介します。

 

県立橿原考古学研究所付属博物館で展示されている太安万侶の墓の復元模型

 県立橿原考古学研究所付属博物館で展示されている太安万侶の墓の復元模型(橿原市で)

(奈良文化財研究所研究員 小田裕樹)

(読売新聞2016年3月6日掲載)

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