-奇跡の朱雀- 今日は、いよいよ『文化財を撮る』展の関連イベント、井上直夫さんの講演会です。 この写真は、2001年に朱雀の姿を初めて確認した調査で撮影されました。 朱雀は方角を守る四神の一つですが、高松塚古墳では盗掘者があけた孔により朱雀が失われています。 しかし、キトラ古墳では盗掘孔の位...
続きを読む平成28年5月15日(日)、藤原京右京九条二・三坊の発掘調査(飛鳥藤原第187次調査)の現地見学会を開催しました。 当日は1,753名名の方にご参加いただきました。 発表資料はこちらです。 >>電子公開ページ 発掘担当者からのコメント:都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)主任研...
続きを読む隠れた語源 意外な発見 宿題を忘れないよう先生に「釘(くぎ)を刺された」けど、「豆腐にかすがい」。適当に「相槌(あいづち)」しつつ、「いの一番」に教室を飛び出します。さてここに出てくる釘・かすがい・槌は建築に使う道具・材料です。いの一番も建物の柱の位置を示す番付の一つで、番付は「い、ろ、は&he...
続きを読む―かたい?ねむい?文化財写真の合格・不合格― 『文化財を撮る』の展示には、 文化財写真の仕事を体感してもらうコーナーがあります。 例えば、飛鳥の甍を撮影した写真。 陰影のはっきりした写真は、一見、格好良く見えます。 ところが、この写真は文化財の記録としては不合格。 ...
続きを読む2016年5月 東大寺の正倉院宝物といえば、美しく装飾された楽器や色鮮やかな錦などが思い浮かびますが、刀や弓矢など武器も伝わっています。ここでご紹介したいのは金銀鈿荘唐大刀という儀仗用の大刀です(図1)。正倉院宝物の台帳である国家珍寶帳には、唐大刀13口と唐様大刀6口の記載があります。唐大...
続きを読む-昭和27年度の岡寺仁王門- 飛鳥は新緑が目にまぶしい季節。でも、あえて今回のオススメはモノクロの写真です。 奈文研の文化財写真、第一号は岡寺の仁王門の写真でした。 戦後の混乱を経て、文化財の研究や保存にむけた体制が整えられつつあった時期。 仁王門も、軸部...
続きを読む―ポスター写真に見る遊び心― 現在開催中の特別展『文化財を撮る―写真が遺す歴史』。 ポスターやチラシに大きく写るクラシカルなカメラが目を引きます。 このカメラは60年以上前につくられたドイツの「Leica Ⅲf」というカメラで、 奈良文化財研究所が文化財調査の記録写真の撮...
続きを読む―写真のボリュームに驚いてください!― 現在開催中の春期特別展では、図録も販売しております。 この図録を編集するにあたり、奈良文化財研究所が今までに撮影してきた写真で、 特に飛鳥・藤原地域に関する写真台帳を見直し、聞き取り調査も行いました。 みなさんに「おもしろい!」「興...
続きを読む2016年5月21日(土)0:00 - 24:00の間、システムメンテナンスを実施します。そのため不定期にシステムを利用できない可能性があります。 ご迷惑おかけします。 >>全国遺跡報告総覧...
続きを読む-昭和45年の藤原宮跡- 展示された写真の中から、担当者のオススメ一枚を紹介するコーナー、 今回は昭和45年(1970)の藤原宮跡の写真を紹介します。 これは、奈文研が藤原宮跡の発掘調査を本格的に始めた時期の写真です。 写真の中央には、発掘調査の作業風景が...
続きを読む―飛鳥資料館の古い招待券発見!― ただいま開催中の特別展『文化財を撮る―写真が遺す歴史』では、 飛鳥資料館の歴代ポスターの一部も展示しています。 懐かしいポスターもご覧いただけます。 そして本日、飛鳥資料館の平成3年度秋期特別展『飛鳥の源流』の招待券が偶然...
続きを読む官人と庶民 古墳再利用 川に遺棄も 前回は平城京に暮らす人々のうち、天皇や貴族・官人が亡くなった後、平城京の周辺の丘陵や山中に葬られたことを紹介しました。 官人の中には、遠い故郷に葬られた人もいたようです。因幡国(現在の鳥取県)出身の伊福吉部徳足比売(いふきべのとこたりひめ)は、和銅元年(7...
続きを読む-川原寺跡の塔心礎- 飛鳥資料館では4月26日から春期特別展を開催しております。 展示された写真の中から、担当者のオススメの一枚を紹介します。 これは、天智天皇がつくったとされる、川原寺跡の発掘調査でみつかった塔の心礎の写真です。 心礎とは、塔の中心に立つ...
続きを読む法隆寺金堂壁画写真をはじめとする重要文化財の写真資料と、 飛鳥寺跡の発掘調査現場の写真など、 奈文研が文化財調査の現場で撮影した写真を展示しています。 さらに、今回の展示は見るだけではありません。 ホンモノの出土品を置いた写真スタジオや、 時間による影の出方のうつりかわ...
続きを読む天皇と貴族 周辺の丘や山中に埋葬 奈良時代、平城京には5~10万人もの人々が暮らしていました。彼らが亡くなった後、たくさんのお墓が必要になったはずですが、一体どこに葬られたのでしょうか? 当時の法律では平城京内での埋葬は固く禁止されていました。このため、お墓は京外に造られました。 ...
続きを読む北祠堂下成基壇の解体 これまでのところ北祠堂の解体作業は順調に進んでいますが、南祠堂と大きく異なる点が新たに発見されました。かつて南祠堂では、中央祠堂の南階段を残したまま基壇を構築していたため、私たちが基壇内を発掘したところ、きれいな状態の中央祠堂南階段が発見されました(写真1)。ところが...
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