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東大寺正倉院宝物と中央アジア

2016年5月 

 東大寺の正倉院宝物といえば、美しく装飾された楽器や色鮮やかな錦などが思い浮かびますが、刀や弓矢など武器も伝わっています。ここでご紹介したいのは金銀鈿荘唐大刀という儀仗用の大刀です(図1)。正倉院宝物の台帳である国家珍寶帳には、唐大刀13口と唐様大刀6口の記載があります。唐大刀は唐で作られたもの、それを模倣して国内で作られたものが唐様大刀であると考えられています。全長は99.9cm、鞘の背の二箇所に山形の金具(帯執)を備え、そこに長さの違う二本の紐を通して腰のベルトから斜めに吊るすことができます(図2右:二点方式)。この佩刀方法が東アジアで使用されるようになるのは6世紀半ばで、それ以前は剣璲(けんすい)というブリッジ状の部品を鞘の腹につけて、そこに紐を通して剣を吊るす方式が用いられていました(図2左:剣璲方式)。

 6世紀半ばに東アジアに佩刀方法の変化をもたらしたのは一体どのような勢力だったのでしょうか?まず思い浮かぶのは3世紀から7世紀半ばまでイランを支配した大帝国ササン朝ペルシアです。ところが、ササン朝では6世紀半ばには依然として剣璲方式が用いられていて、後に外部から二点方式が導入されたことが図像資料の検討から明らかになっています。

 ササン朝第18代の王ペーローズは、484年に中央アジアの遊牧民との戦いで戦死しています。このときササン朝を破ったのは、現在のアフガニスタン北部を拠点として急速に勢力を拡大していたエフタルです。エフタルについては今も分からないことが多いですが、もとはフン族(匈奴)の一派であった可能性が高いとされています。6世紀半ばにササン朝は突厥(とっけつ)という別の遊牧民と協力してエフタルを滅ぼすことに成功しますが、それまで一世紀の間エフタルは中央アジア全域を支配します。エフタル支配下で中央アジアは安定し、人々の往来が盛んになり、領内には共通の風俗や習慣が一気に流行します。そのうちの一つが短剣を腰のベルトから水平に吊るす習慣で、その際二点方式が用いられました。遅くとも500年頃にはこの習慣が中央アジアの各地に広まっていました。このことから、もともとは短剣を吊るす方法としてエフタル支配地域で流行した二点方式が、後に長剣にも応用され、それが東西に広まったと考えられます。

 これまでの研究は東大寺正倉院宝物にペルシアの影響を認めていますが、金銀鈿荘唐大刀のように中央アジアの影響を伝える宝物も少なくないと考えています。

 

 

正倉院宝物金銀鈿荘唐大刀.jpg

図1:正倉院宝物 金銀鈿荘唐大刀(北倉38)

 

 

剣璲方式_二点方式.jpg

図2:(左)剣璲方式 (右)二点方式

 

(企画調整部アソシエイトフェロー 影山悦子)

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