「版築」で増える労力
「宮垣未(いま)だ、ならず」
平城京遷都から1年半ほど経ても、平城宮を取り囲む大垣と呼ばれる塀がまだできないことを記した和銅4年(711年)9月のことばです。ため息すら聞こえてきそうです。
平城宮に先立つ藤原宮にも、大垣は巡っていました。その総延長は約3・7キロ。平城宮では約4・5キロと、単純に計算しても1・2倍の労力がかかります。しかし、そんなことは平城宮の大きさを決めた段階でわかりそうなもの。実は担当者の想像を超える難題があったようです。
大垣の構造がまったく違うのです。藤原宮では地面に穴を掘って柱を立てる掘立柱(ほったてばしら)の塀でした。いっぽう、平城宮では、版築(はんちく)と呼ばれる工法の築地塀(ついじべい)を採用しました。この版築がやっかいなのです。幅約9尺(2・7メートル)の型枠を組んで、10センチほど土を詰め、これを6センチほどの厚さに棒で突き固めます。幅を徐々に狭めながら、おそらく13尺ほど(約3・8メートル)の高さになるまで版築を繰り返さなくてはなりませんでした。さらにその上に瓦葺(ぶ)きの屋根を設け高さ5メートルを超える塀に仕上げたのです。
版築を用いた塀を宮殿に巡らすのは、お隣の唐を見習ったものでしょう。新たな構造の採用が、工程を遅らせ、ため息を生んでいたかもしれません。
(奈良文化財研究所研究員 鈴木智大)◇イラスト・岡本友紀
(読売新聞2015年3月22日掲載)