史料に詳細 盗掘の記録
古墳の埋葬施設を発掘調査すると、過去の盗掘により、副葬品などがすべて失われていることがよくあります。例えば、極彩色の壁画で知られる明日香村の高松塚古墳とキトラ古墳も鎌倉時代に盗掘され、ほとんどの副葬品が持ち去られていました。
日本で最も古い盗掘の記録は、平安時代の歴史書「扶桑略記(ふそうりゃくき)」に1060年(康平3年)、河内国(大阪府)の推古天皇陵に盗人が入ったとの記述があります。また1063年(康平6年)には、興福寺の僧だった静範ら17人が平城宮の北にある成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)を盗掘しましたが、宝物は取り返されて元に戻され、17人は罰として遠国に流されました。
また、盗掘の状況を非常に詳細に記録したものもあります。「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」は、1235年(文暦2年)に起こった天武・持統合葬陵の盗掘を記した検分録です。それを見ると、石室内部の様子や棺(ひつぎ)、遺骨、副葬品の状況が詳しく記され、さながら発掘調査報告書のようです。
長い歴史のなかで古墳の盗掘は繰り返されましたが、現在では文化財保護法が古墳を守る盾となっています。いつの時代でも盗掘は重罪ですが、その記録は我々と古墳のつながりを示す重要な手がかりでもあるのです。
キトラ古墳の南壁に残る盗掘時の穴。描かれた朱雀はかろうじて破壊を免れた
(奈良文化財研究所主任研究員 林正憲)
(読売新聞2017年8月1日掲載)