碁盤の目に条・坊・坪
現代の私たちの住所は市町村名と丁番号の数字で表記されます。平城京の時代はどうだったのでしょう。碁盤の目状に区画された平城京では、「条」「坊」「坪」の数字で場所を表示できました。
平城京では東西・南北方向の大路を約530メートルの等間隔の方眼上に配置していました。東西方向の大路で区切られた範囲は、北から一条、二条と呼ばれ、南北方向の大路で区切られた間は、朱雀大路から東に左京一坊、左京二坊、朱雀大路から西に右京一坊、右京二坊と呼ばれます。
さらに大路で囲まれた一画を東西・南北3本ずつの小路で16の小さな区画「坪(町)」に分割しました。坪は朱雀大路に近い北側から順に1から16までの番号をつけています(図参照)。この条・坊・坪を組み合わせて「左京三条二坊」の「二坪」や「八坪」のように表現すれば、平城京内のどの位置にあたるか、約130メートル四方の広さがある坪の地番表示ができるのです。
ただし、奈良時代の史料では「条」「坊」までの表記で、坪の使用例は確認されていません。「坊」、つまり約530メートル四方の範囲まで住所が特定できれば、よかったのですね。
平城京条坊設定模式図(左京の場合、『奈文研史料60 平城京条坊総合地図』より)
(奈良文化財研究所飛鳥資料館研究員 西田紀子)
(読売新聞2015年2月1日掲載)