長い航海 どうか無事で
平城宮・平城京では、木製の船形代(かたしろ)(模造品)が出土することがあります。人形や馬形と違って数は少ないのですが、全国各地の遺跡からも出土しています。いったいこの船形代、何のために使ったものでしょうか?
奈良時代の歴史書『続日本紀』には、遣唐使が春日山の麓で、航海の無事を祈ったことが記されています。また、隣の若草山からは石の船形代が出土したことがあり、これは古代から航海の安全祈願の島として知られる福岡県の宗像沖ノ島で出土したものとよく似ています。これらのことから、船形代は航海の安全を願う祭りに使ったと考えられています。
当時は唐のほか、新羅・渤海(ぼっかい)とも国交があり、東シナ海や日本海の波濤(はとう)を越えて、多くの使節の往来がありました。船や航海技術が未熟な古代では、遭難することも多く、無事に帰れる保証はありません。人々にとって、船形代で願うことは今よりさらに切実なことであったのでしょう。
「青海原 風波なびき 行くさ来(く)さ つつむことなく 船は早けむ」
これは、大伴家持が渤海大使を送る宴(うたげ)でつくった歌で、『万葉集』に載せられています。家持は大使の航海の安全を願い、邸宅の池に船形代を浮かべて送別の宴を催したのかもしれません。
平城宮跡・東院庭園出土の船形代
(奈良文化財研究所アソシエイトフェロー 南部裕樹)
(読売新聞2014年1月12日掲載)