水洗式 平城京にあった
昔のトイレといえば、汲(く)み取り式の「ボットン便所」のイメージが強いでしょう。ところが、古代にはすでに水洗トイレがありました。
藤原京や平城京では、道路脇を流れる溝を自宅に引き込み、水流の上で用を足したと考えられる遺構が見つかっています。
さらに、藤原宮の官庁街からは、幅5メートルの大溝の上をまたぐように建てられた川屋(厠(かわや))の跡も見つかっています。建物は、長さ20メートル、個室の間口を1メートルとすると、20人が一挙に用を足せる共同トイレだった可能性があります。しかし、こうした痕跡からなぜトイレと言えるのでしょうか?
排泄(はいせつ)されたウンチは、時間がたつと分解され、土に帰ります。この土を洗って調べると、消化されなかった魚の小骨などの食べカスが含まれるのです。周辺の土とくらべて寄生虫の卵の数が異常に多いと、トイレの有力な証拠となります。
当時、トイレットペーパーはなく、木切れ(ちゅう木)でお尻をぬぐいました。ちゅう木がたくさん出土すれば、トイレの可能性はますます高くなります。ただし、これらがトイレでなく、「肥だめ」や、糞尿(ふんにょう)を棄(す)てた場所と考える説もあり、さらなる検討が必要です。
トイレの研究は、まだ発展途上。研究が進んでいずれトイレの謎がスッキリと解ける日が来るはずです。
(奈良文化財研究所研究員 青木敬)
(読売新聞2013年12月15日掲載)