2006年7月 平城宮跡資料館を入ると、入口ロビーに明治時代の平城宮跡の地形模型が展示してある。ほぼ全域が水田なのであるが、田の中にいくつかの土壇が高まりとして残っている。 平城宮跡研究の先駆者である幕末の藤堂藩士、北浦定政は地名と畦畔から平城宮を含めた京域の復原図を作成したが、明治の奈良県技師...
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2005年9月 奈良文化財研究所は、1952年に美術工芸研究室、建造物研究室と歴史研究室の三研究室で発足しました。その後の改編で、美工は奈良国立博物館に移り、現在は建造物研究室、遺跡研究室と歴史研究室の三研究室で文化遺産研究部となっています。 奈文研は、現在は平城宮跡や藤原宮跡の発掘調査のスタッ...
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2005年6月 奈良の夏は暑い。雪国育ちの私には、照りつける灼熱の太陽は過酷だ。こんな暑い奈良で平城京の人びとは、猛暑をどう凌いでいたのだろう。 当時の気温は、今と比べてどうだったのだろうか。周辺に生えていた草木の種類や桜の開花時期、中国の文献などによる推定では、古墳時代から奈良時代初めまでは、...
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2005年2月 今年は、台風が例年になく多く、現地レポーターが、強風と高波を背景に波止場で叫んでいる場面を何度となく見ました。 ある日、家内が、「かわいそうに、女の子ががんばってるわ」、というので、見ますと、なるほど、小柄な女性アナウンサーが、強風雨に両足を踏ん張ってレポートしています。 私、...
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2004年12月 明日香村キトラ古墳の石室は満天の星空である。天井いっぱいの星(星宿という)は天空の王者である北極星を中心に、北斗七星など300余りの星、太陽と月、太陽の軌道の黄道や赤道などを表す。 星との間、軌道は朱線を引き、星には金箔を貼っている。石(墓)室は奥行き約2.4メートル、幅約1メ...
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2004年10月 最近、えっと思った、ちょっとした話。わが研究所は、中国や韓国の研究所との交流が盛んで、年間、互いに行き来する研究者は100名近くにもなります。 そんな中、先日、来日された中国西安市の方々と会食したときのことです。女子十二楽坊から、中国の伝統的な楽器の演奏、特に二胡の人気などに話...
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2004年4月 作寶樓というのは、奈良時代の皇族宰相として有名な長屋王(687~729年)の屋敷につくられた二階建て建物であり、また屋敷の雅号だったかもしれません。 国道24号線の建設にともなう発掘調査で、ウワナベ古墳の東南、東三坊大路の東側で古墳の濠を利用した立派な庭園が発見されました。 そ...
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