なぶんけんブログ|奈良文化財研究所に関する様々な情報を発信します。

平城宮跡ギャラリー 2011年4月

平城宮跡ギャラリー 2011年4月

近鉄と朱雀門 (2011年4月7日) 佐伯門跡 (2011年4月8日) 朝の平城宮跡 (2011年4月8日) 平城宮跡資料館 (2011年4月12日) 桜が満開!(2011年4月13日) 青空に大極殿 (2011年4月13日) 平城宮でお花見 (2011年4月13日) 桜が満開! (2011年4月...

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くれなゐはうつろふものそ

くれなゐはうつろふものそ

2011年2月  『万葉集』巻一八・4109番に「紅(くれなゐ)は うつろふものそ 橡(つるはみ)の なれにし衣(きぬ)に なほしかめやも」という歌が、掲載されています。  これは、大伴家持が、天平感宝元年(749)5月15日につくりました。  意味は、東野治之さんらの解説によると、「紅は 色あせる...

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青年の志―平城宮跡を守った男達

青年の志―平城宮跡を守った男達

2010年11月  私は最近『平城京ロマン』と題する本を上梓しました。昨年奈文研を辞し東京農業大学の教官となった若き研究者・粟野隆氏との共著で、京阪名情報教育出版株式会社という奈良の小さな本屋さんからの出版です。私はこの本の中で平城京の成り立ちと、平城京廃都後のさまざまな動きについての項の執筆をうけ...

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年輪年代学-年輪は自然がつくりだした歴史年表-

年輪年代学-年輪は自然がつくりだした歴史年表-

 年輪年代学では、木材の年輪変動を調べることにより、その木の伐採年代や枯死年代を求めことができます。  この方法の1番の特徴は、木材試料中の各年輪が形成された年を1年単位で決定できる点であり、得られた年代に誤差がないという点では数ある自然科学的年代測定の中でもとりわけ優れた方法です。  欧米ではポピ...

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保存修復科学-貴重な文化財を次代に残す-

保存修復科学-貴重な文化財を次代に残す-

フィールドワーク  平城宮跡では建物の礎石や基壇が数多く出土します。これらのうち、風化によって脆くなった凝灰岩石材などは、有機ケイ素化合物(有機シリコーン樹脂)で含浸強化した後、撥水処理を行います。飛鳥地域では、閃緑岩が著しく風化しているのを見かけます。(写真1)  また、非常に脆くなった遺物を取り...

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環境考古学-ゴミ溜めは宝の山-

環境考古学-ゴミ溜めは宝の山-

 貝塚を掘ると、貝層の中から貝殻はもちろんのこと、土器や石器、獣骨、鳥骨、魚骨などが数多く出土します。  戦前の考古学者は土器や石器を人工遺物とよび、貝殻、獣骨、鳥骨、種子、木材片、岩石などを自然遺物として分類しました。前者は考古学者が、後者は自然科学者が研究するものと定義したのです。その結果、長い...

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飛鳥時代の幕開け

飛鳥時代の幕開け

古墳文化の華-藤ノ木古墳- 馬具(1)棘葉形杏葉 神仙思想の色濃い三角縁神獣鏡、ゴージャスな金製耳飾、無骨な甲冑など、古墳時代を彩る遺品は数々あるが、その終わりに咲いた花といえば、藤ノ木古墳の馬具をおいて右に出るものがない。 ©奈良県立橿原考古学研究所・文化庁 馬具(2) 鞍金具(複製) 銅に金メッ...

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律令国家の胎動

律令国家の胎動

天皇家の大寺造営 吉備池廃寺の発掘 桜井市吉備(きび)にある吉備池の周囲を、1997 年から 5 年にわたり発掘調査をおこなった。その結果、池の東南部に張り出した土壇(どだん)が金堂(こんどう)跡であり、その西にならぶ土壇が巨大な塔跡であることが判明した。これらの東・南・西には回廊(かいろう)がめぐ...

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天武・持統朝の世界

天武・持統朝の世界

壬申の乱 箸墓の戦い 天智10(671)12月、天智天皇が近江大津宮で亡くなると、翌672年、吉野に隠遁していた大海人皇子(天智天皇の弟)と近江朝廷の大友皇子(天智天皇の子)の間で、皇位継承をめぐる内乱が勃発した。戦いは約1ヶ月におよび、大和、伊賀、伊勢、美濃、近江、山背、摂津、河内など、畿内とその...

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中国式都城「藤原京」の世界

中国式都城「藤原京」の世界

藤原京の建設 役人の歌 役民は全国各地から徴発され、造営に関わるさまざまな仕事に従事した作業員である。『万葉集』巻一「藤原宮の役民の作る歌」からは、木材調達の様子をうかがい知ることができる。それによると、近江の田上山から伐りだした木を筏に組み、宇治川・木津川をへて、泉の津(木津)で陸あげをおこなって...

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三笠の山に出でし月かも

三笠の山に出でし月かも

2009年8月  あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも  百人一首に収められたこの歌は、皆さんもよくご存じのことと思います。作者の阿倍仲麻呂は、都が藤原京にあった文武天皇2年(698)に阿倍船守の子として生まれました。名族阿倍氏の出身で、若くして学才を認められた仲麻呂が遣唐留...

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様になる

様になる

2009年2月  飛鳥池の発掘調査では、いろいろな木製の「様(ためし)」が出土した。「様」とは、製品の見本、あるいは手本といったもので、これと同じものを工人は作るのである。「様」とそっくり同じように作ることで、製品として一定の規格や性能が確保されることになる。また、「様」があれば、多くの工人で作業す...

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柱穴の魅力

柱穴の魅力

2009年2月  写真にみえる穴は、藤原宮の周囲を囲んでいた掘立柱塀(大垣)の遺構です。南北一列に並ぶ方形の穴は、柱の根元を埋め立てるために掘られた穴(柱掘方)で、1辺が1.3~1.8mほどと大型です。古代の役所では、このように大型で方形の柱掘方を伴う掘立柱建物が多数見られます。小型で円形の柱掘方を...

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平城京と国分寺の瓦

平城京と国分寺の瓦

2009年2月  拓本の図は信濃国分寺の軒瓦です。この瓦は以前から奈良の瓦によく似ていると言われながら、同笵の瓦はこれまで奈良でみつかりませんでした。同笵瓦とは、木製の同一笵に粘土を詰めて文様を作り出した別々の個体の瓦です。ところが、2003年の奈良市教育委員会による奈良市国見町の発掘で、はじめて信...

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「我念君、君念我」の組み合わせ墨書文字

「我念君、君念我」の組み合わせ墨書文字

2008年1月  この珍しい組み合わせ墨書文字は、平城宮内裏北方の官衙にあった塵捨て穴から出土した土師器の小型の杯に記されていた。杯の底部外面中央に2行にわたって「採る莫れ、鸚鵡鳥杯」と、その脇に逆方向からそれとは別筆の二つの組み合わせ文字、「我念君」・「道為金」が記されている。もともとオオムの餌入...

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藤原宮のその後

藤原宮のその後

2007年12月  奈良の都「平城京」へ都が遷って1300年にあたる、2010年が間近にせまってきていますが、日本の都として、中国に倣い、我が国で最初に計画的に作られた人工都市は、「藤原京」です。  しかし、わずか16年で都は平城京へ遷ってしまいました。平城遷都1300年は、同時に藤原京が廃されて1...

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平城宮跡の認識と大極殿の復原

平城宮跡の認識と大極殿の復原

2006年7月  平城宮跡資料館を入ると、入口ロビーに明治時代の平城宮跡の地形模型が展示してある。ほぼ全域が水田なのであるが、田の中にいくつかの土壇が高まりとして残っている。  平城宮跡研究の先駆者である幕末の藤堂藩士、北浦定政は地名と畦畔から平城宮を含めた京域の復原図を作成したが、明治の奈良県技師...

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最近の東大寺の調査から

最近の東大寺の調査から

2005年9月  奈良文化財研究所は、1952年に美術工芸研究室、建造物研究室と歴史研究室の三研究室で発足しました。その後の改編で、美工は奈良国立博物館に移り、現在は建造物研究室、遺跡研究室と歴史研究室の三研究室で文化遺産研究部となっています。  奈文研は、現在は平城宮跡や藤原宮跡の発掘調査のスタッ...

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奈良の都の夏と氷

奈良の都の夏と氷

2005年6月  奈良の夏は暑い。雪国育ちの私には、照りつける灼熱の太陽は過酷だ。こんな暑い奈良で平城京の人びとは、猛暑をどう凌いでいたのだろう。  当時の気温は、今と比べてどうだったのだろうか。周辺に生えていた草木の種類や桜の開花時期、中国の文献などによる推定では、古墳時代から奈良時代初めまでは、...

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発掘現場と女性

発掘現場と女性

2005年2月  今年は、台風が例年になく多く、現地レポーターが、強風と高波を背景に波止場で叫んでいる場面を何度となく見ました。  ある日、家内が、「かわいそうに、女の子ががんばってるわ」、というので、見ますと、なるほど、小柄な女性アナウンサーが、強風雨に両足を踏ん張ってレポートしています。  私、...

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