壬申の乱 箸墓の戦い 天智10(671)12月、天智天皇が近江大津宮で亡くなると、翌672年、吉野に隠遁していた大海人皇子(天智天皇の弟)と近江朝廷の大友皇子(天智天皇の子)の間で、皇位継承をめぐる内乱が勃発した。戦いは約1ヶ月におよび、大和、伊賀、伊勢、美濃、近江、山背、摂津、河内など、畿内とその...
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藤原京の建設 役人の歌 役民は全国各地から徴発され、造営に関わるさまざまな仕事に従事した作業員である。『万葉集』巻一「藤原宮の役民の作る歌」からは、木材調達の様子をうかがい知ることができる。それによると、近江の田上山から伐りだした木を筏に組み、宇治川・木津川をへて、泉の津(木津)で陸あげをおこなって...
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2009年8月 あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 百人一首に収められたこの歌は、皆さんもよくご存じのことと思います。作者の阿倍仲麻呂は、都が藤原京にあった文武天皇2年(698)に阿倍船守の子として生まれました。名族阿倍氏の出身で、若くして学才を認められた仲麻呂が遣唐留...
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2009年2月 飛鳥池の発掘調査では、いろいろな木製の「様(ためし)」が出土した。「様」とは、製品の見本、あるいは手本といったもので、これと同じものを工人は作るのである。「様」とそっくり同じように作ることで、製品として一定の規格や性能が確保されることになる。また、「様」があれば、多くの工人で作業す...
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2009年2月 写真にみえる穴は、藤原宮の周囲を囲んでいた掘立柱塀(大垣)の遺構です。南北一列に並ぶ方形の穴は、柱の根元を埋め立てるために掘られた穴(柱掘方)で、1辺が1.3~1.8mほどと大型です。古代の役所では、このように大型で方形の柱掘方を伴う掘立柱建物が多数見られます。小型で円形の柱掘方を...
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2009年2月 拓本の図は信濃国分寺の軒瓦です。この瓦は以前から奈良の瓦によく似ていると言われながら、同笵の瓦はこれまで奈良でみつかりませんでした。同笵瓦とは、木製の同一笵に粘土を詰めて文様を作り出した別々の個体の瓦です。ところが、2003年の奈良市教育委員会による奈良市国見町の発掘で、はじめて信...
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2008年1月 この珍しい組み合わせ墨書文字は、平城宮内裏北方の官衙にあった塵捨て穴から出土した土師器の小型の杯に記されていた。杯の底部外面中央に2行にわたって「採る莫れ、鸚鵡鳥杯」と、その脇に逆方向からそれとは別筆の二つの組み合わせ文字、「我念君」・「道為金」が記されている。もともとオオムの餌入...
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2007年12月 奈良の都「平城京」へ都が遷って1300年にあたる、2010年が間近にせまってきていますが、日本の都として、中国に倣い、我が国で最初に計画的に作られた人工都市は、「藤原京」です。 しかし、わずか16年で都は平城京へ遷ってしまいました。平城遷都1300年は、同時に藤原京が廃されて1...
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2006年7月 平城宮跡資料館を入ると、入口ロビーに明治時代の平城宮跡の地形模型が展示してある。ほぼ全域が水田なのであるが、田の中にいくつかの土壇が高まりとして残っている。 平城宮跡研究の先駆者である幕末の藤堂藩士、北浦定政は地名と畦畔から平城宮を含めた京域の復原図を作成したが、明治の奈良県技師...
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2005年9月 奈良文化財研究所は、1952年に美術工芸研究室、建造物研究室と歴史研究室の三研究室で発足しました。その後の改編で、美工は奈良国立博物館に移り、現在は建造物研究室、遺跡研究室と歴史研究室の三研究室で文化遺産研究部となっています。 奈文研は、現在は平城宮跡や藤原宮跡の発掘調査のスタッ...
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2005年6月 奈良の夏は暑い。雪国育ちの私には、照りつける灼熱の太陽は過酷だ。こんな暑い奈良で平城京の人びとは、猛暑をどう凌いでいたのだろう。 当時の気温は、今と比べてどうだったのだろうか。周辺に生えていた草木の種類や桜の開花時期、中国の文献などによる推定では、古墳時代から奈良時代初めまでは、...
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2005年2月 今年は、台風が例年になく多く、現地レポーターが、強風と高波を背景に波止場で叫んでいる場面を何度となく見ました。 ある日、家内が、「かわいそうに、女の子ががんばってるわ」、というので、見ますと、なるほど、小柄な女性アナウンサーが、強風雨に両足を踏ん張ってレポートしています。 私、...
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2004年12月 明日香村キトラ古墳の石室は満天の星空である。天井いっぱいの星(星宿という)は天空の王者である北極星を中心に、北斗七星など300余りの星、太陽と月、太陽の軌道の黄道や赤道などを表す。 星との間、軌道は朱線を引き、星には金箔を貼っている。石(墓)室は奥行き約2.4メートル、幅約1メ...
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2004年10月 最近、えっと思った、ちょっとした話。わが研究所は、中国や韓国の研究所との交流が盛んで、年間、互いに行き来する研究者は100名近くにもなります。 そんな中、先日、来日された中国西安市の方々と会食したときのことです。女子十二楽坊から、中国の伝統的な楽器の演奏、特に二胡の人気などに話...
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2004年4月 作寶樓というのは、奈良時代の皇族宰相として有名な長屋王(687~729年)の屋敷につくられた二階建て建物であり、また屋敷の雅号だったかもしれません。 国道24号線の建設にともなう発掘調査で、ウワナベ古墳の東南、東三坊大路の東側で古墳の濠を利用した立派な庭園が発見されました。 そ...
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