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あまちゃん

2013年5月

 奈良時代の貴族の食卓には、さまざまな山海の珍味が並びました。シカやイノシシ、タイやアユ。なかでもアワビは、「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡にみるようにどんな食材よりも高級なものとして珍重されました。食通で知られる北大路魯山人も、アワビに関して多くの著作を残しており、筆まめぶりに驚きます。今回は、アワビにまつわる物語をひもといてみましょう。

 藤原京や平城京は海から遠いため、アワビは干物としてもたらされました。干すことにより、保存性が高まるだけでなく、旨みも凝縮されます。生のアワビを薄くむき、生乾きになったら竹筒で押し伸ばすことを繰り返し、乾燥させたものを特に熨斗(のし)アワビと呼びます。大吉の縁起物で、神に捧げる供物でもあり、「のし袋」の語源です。平城宮出土木簡からは、長さ7尺(約2.1m)にもおよぶ熨斗アワビがあったことが知られます。また、藤原宮では井戸からアワビの貝殻が出土しています。アワビは「御食国」の若狭国や志摩国だけでなく、隠岐国や安房国など、多くの国々から献上されました。今も各地で海人(あま)が活躍していますが、当時から専業的な人々がアワビを採取していたのでしょう。

 『魏志倭人伝』に「(倭人は)海中へと潜り、好んで魚や鮑を捕る」という記載がありますが、アワビ漁はさらに古く、縄文時代にまで遡ります。既に早期(約7000年前)には貝塚から出土しており、「アワビ起こし」と考えられるヘラ状の骨角器も見つかっています。縄文時代にも男女の分業があったと考えられており、貝採りは女性の仕事でした。春子どもを連れて浜辺に行き、夏にかけて貝を採る情景が復原されています。シロヘソアキトミガイも拾えたかも知れません。さて、アワビも女性が捕ったのでしょうか。

 青森県の下北半島の先端には、驚くべき遺跡があります。14世紀前半から15世紀末にかけて存続した、浜尻屋貝塚です。殻長6cm前後の、大きさの揃ったアワビの貝殻が大量に出土しました。本州のもっとも北、鉄のアワビ起こしがあったでしょうが、冷たい海での大変な作業で、陸に上がればストーブが欲しかったかも知れません。近くの平坦な場所には、加工場と考えられる施設があります。共同体の結(ユイ)として、干しアワビを作っていたのでしょう。干しアワビは近世には「長崎俵物」として中国に輸出するなど、広く交易されていました。浜尻屋貝塚では、豊富な資源をもとに、干しアワビを専業的に生産していたのです。さらに、近くには近世の同様な貝塚があり、この地では継続的に干しアワビを作っていたことがわかります。

 このように豊かな海も、一昨年の震災で大きな被害を受けました。奈文研も、被災地に出向いて文化財を保護し、復興を支援する事業に関わっています。それらの活動にも、ご理解とご支援をよろしくお願いします。

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長屋王邸にアワビを送った木簡

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アワビの貝殻が出土した藤原宮の井戸

(都城発掘調査部副部長 玉田 芳英)

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