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大極殿見学の栞に

2013年7月

 2010年に復原が完成した平城宮第一次大極殿は、遷都1300年祭が終わったあとも、多くの見学者で賑わっています。大極殿から南に朱雀門を望めば、平城宮の中心を占めるこの儀式空間の広がりを実感することができますが、私にとって意外だったのは、平城宮の横方向(東西)の広がりに対して、朱雀門がとても近く見えることでした。元日朝賀(がんじつちょうが)などの大極殿での儀式は、大極殿から朱雀門前までの縦方向(南北)に細長い空間を有機的に用いて行われます。役人は位階や官職に応じて並ぶ位置が決められていましたから、儀式に参列することで律令国家での自分の位置付けを再認識させられることになりましたが、大極殿上の天皇にとっては、臣下との一体感を強く感じる場だったということになるでしょう。

 大極殿内の見学を終えて北側に回ると、道路の向こう側に丸く刈り込んだツゲの木が並んでいるのが見えます。これは発掘で見つかった役所の建物の柱を示すものです。また、細長い生け垣状の植え込みは、役所を区画する築地塀(ついじべい)を示しています。

 その一画に、1961年に平城宮で最初の木簡が見つかったゴミ穴SK219は位置しています(写真上・下)。2003年に重要文化財に指定されたその木簡には、淳仁(じゅんにん)天皇と対立して法華寺に住んでいた孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)(聖武天皇と光明皇后の娘)側近の女官竹波命婦(つくばのみょうぶ)が、小豆(あずき)・醤(ひしお) ・酢(す)・末醤(まっしょう)の4種類の食料を請求した木簡(763年または764年のものか)が含まれています(写真右)。これは当時の政情を反映する貴重な生の資料であるとともに、食料管理を担当する大膳職(だいぜんしき)などの役所と推定する根拠ともなりました。

 孝謙太上天皇は、764年の恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱後、淳仁天皇を退位させて淡路国(現在の淡路島)に移し、再び天皇になって平城宮に戻ります。普通これ以後を称徳天皇と呼びますが、彼女が以後770年に亡くなるまで住んだのは、第一次大極殿の跡地(第一次大極殿は740年の恭仁(くに)京への遷都により恭仁宮に移築されました)に建てられていた宮殿、西宮(にしみや)(「さいぐう」ともいう。)でした。

 つまり、称徳天皇は、父聖武天皇のために造られたといってよい平城宮の中心建物、第一次大極殿と同じ場所で亡くなったのです。称徳天皇は718年生まれで、その生涯はすっぽり平城宮の時代に収まります。称徳(孝謙)天皇は、父聖武天皇以上に平城宮の時代を生きた、いろいろな意味で時代を体現した天皇のように、私には思われるのです。

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(都城発掘調査部史料研究室長 渡辺 晃宏)

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