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今、世はイクメンの時代。

2012年5月
 

《病草紙断簡・肥満の女》部分 
福岡市美術館蔵(松永コレクション)
 テレビや雑誌には、育児を積極的に「楽しむ」父親達が盛んに登場します。こうなると、イクメンならざる父親とて、育児への「協力」程度はせざるを得ないわけで、かくして私も、有無を言わさず子育ての渦中へと巻き込まれることとなった次第であります。そんな経験のおかげで、今まで気にもとめていなかったことが気になるようになってきました。 
 横江臣刀自女(よこえのおみとじめ)という、美しく、魅力的で、モテモテで、そして奔放な女性の物語が伝わっています。彼女は、男性との逢瀬を楽しむあまりに育児を放棄、母乳すら与えません。育児放棄の罰があたり、乳房が腫れ上がり猛烈に痛み、膿が流れ出すという苦しみを味わうことになります(『日本霊異記』下巻第十六)。 
 育児放棄の罰が「乳房腫れ上がり病」。何か引っかかる。「乳房腫れ上がり病」の症状、どこかで聞いたことがある。調べてみると、ありました。「乳腺炎」。
 乳房が腫れ、膿が溜まり、時に高熱が出る。原因は、赤ちゃんが飲む以上の母乳を母親が生産してしまい、余った母乳が乳房に溜まることだそうです。横江臣刀自女さんも、授乳していません。とすると、まさに「乳腺炎」にぴったりです。奈良時代は豊満な女性が魅力的とされていたようですから、母乳供給過多も納得です。
 さて、そうなると、「乳房腫れ上がり病」は観念的な「罰」ではなく、古代の人が実際に目にし、苦しんだ病気だったのです。多くの子に授乳した乳房からの表現という「垂乳根」といい、母子をめぐる古代人の観察は実に鋭く現実的です。 
 ただ、必死に子育てをしていても、乳腺炎になることもあります。そんなお母さんが、苦しみの理由を横江臣刀自女と同様にされたりしたら、何とも気の毒です。医学的知識の乏しい時代、偏見に苦しんだお母さんもいたでしょう。
 古代、乳腺炎に苦しんだお母さん達が、苦しみを乗り越え、「垂乳根」の称号を得られたことを、1300年後から祈っています。ちょっと手遅れな気もしますが。
(都城発掘調査部 主任研究員 馬場 基)