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飛鳥寺と奈文研-終わらない調査研究と保存

2013年5月
 
 いまは田園風景がひろがる飛鳥の地。その飛鳥の核といってもよい飛鳥寺は、わが国で最初の本格的な仏教寺院とされています。『日本書紀』には崇峻元年(588)、百済から僧、技術者たちとともに仏舎利がもたらされ、「始めて法興寺を作る。」と記されています。この法興寺が、飛鳥寺のことです。各地でいまだ古墳を造営していたころの出来事です。 

 飛鳥寺を造立したのは、当時絶大な権力を誇った蘇我氏でした。蘇我本宗家の滅亡以後も飛鳥寺は大寺として重要な地位を保ち、周辺には7世紀代を通じて飛鳥諸宮を筆頭とした重要施設が整備されていきます。寺域の西側には槻の木の広場があり、北西は漏刻台と考えられる水落遺跡および饗応施設・官衙的施設と考えられる石神遺跡に隣接しています。東南には富本銭などを製作した飛鳥池遺跡があります。これらの遺跡の多くは奈文研の主要な調査研究対象ですが、奈文研による飛鳥での発掘調査の嚆矢が飛鳥寺の調査です。 

 飛鳥寺に発掘調査のメスが入ったのは昭和31・32年(1956・1957)のことです。農業用水路の敷設にむけた事前の調査で、発足まもない奈良国立文化財研究所が、3次にわたる調査を実施しました。そして予想外の一塔三金堂式伽藍や塔心礎埋納品を発見するなど、重要な画期的成果を上げました。また調査手法の面でも、瓦を悉皆的に採集する方法や、調査日誌による精緻な記録など、いまに通じる発掘調査の基礎が導入された現場だと評価されています。 飛鳥寺の瓦の文様、国内で例のなかった一塔三金堂式の伽藍配置と二重基壇は朝鮮半島の百済や高句麗に系譜をたどれることなどから、日本の古代寺院あるいは古代史を研究するためには東アジア的視野が必要不可欠であることを、はっきりと示したのも飛鳥寺の調査成果だといえるでしょう。 

 昭和31・32年の発掘調査の所見は昭和33年(1958)に学報第5冊『飛鳥寺発掘調査報告』として上梓されました。その成果をうけて昭和41年(1966)、飛鳥寺跡が国指定史跡に指定されています。その後、昭和61年(1986)には発掘30年を記念して飛鳥資料館で「飛鳥寺」展を開催しました。

 それからおよそ四半世紀がすぎ、平成25年(2013)春、飛鳥資料館はふたたび飛鳥寺に焦点をあて、「飛鳥寺2013」展を開催しました。飛鳥寺の主要な発掘調査は半世紀以上も前の話です。しかし、国内外でさまざまな遺跡・遺物などの調査研究が蓄積され、新手法が開発されるとともに、飛鳥寺の調査成果や出土遺物は、立ち返るべき資料として、あるいは新たな研究の対象として、なんども俎上に載ってきました(近年の研究に関する詳細は、展覧会図録をご覧ください)。 飛鳥寺の遺跡、遺物は学術的な定点であるとともに、解明されていない課題を多く含んだ資料として、色あせない価値をもっています。わが国の初期古代寺院の実態を示す重要な資料であり、考古学、建築史、仏教史、金工史などの各分野にとっても、古墳時代から飛鳥時代にかけて儀礼や技術などの変遷を考えるうえで欠くことのできない資料として、比類ない価値をもつと評価することができるでしょう。 

 ところで、「飛鳥寺2013」展の会場で(私を含めて)興味をひいていたのは、当時の調査で使ったライカⅢやスピグラ(スピードグラフィック)、ガラス乾板を使用するカメラなどの機材と、記録類でした。ガラス乾板を入れるホルダーは木製で、完璧な遮光をする工作精度はいま見ても驚きです。古い機材は捨ててしまいそうになりますが、やはり半世紀を経過すると文化財的な価値を帯び始める感じがします。遺構実測図(野帳)は尺を意識した3cm方眼で、鉛筆書きの後に墨入れしています。こういった記録類や関連資料もまた、守り伝えていかなければならない貴重なものだと実感しました。一方では出土遺物が保存処理してからかなりの年月を経過しており、再修理などを検討する時期が近付いている印象をうけます。 飛鳥寺の調査は奈文研の基礎となりました。そして実物資料・関連資料を後世に守り伝えていくことと、新しい調査研究を行うことは、どちらも終わりがなく、これからも続いてゆくのです。 

飛鳥寺とその周辺

塔心礎出土品の一部
(飛鳥資料館 学芸室長 石橋 茂登)

 

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