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船をつなぐ石

2021年1月

 いつの時代でも船というものは、係留の際に潮に流されないよう、ロープや錨で固定する必要があります。しかし、中近世には、現代のような整備された港湾やコンクリートや鋼鉄製の杭などありませんので、自然地形を活かして係留しました。実際、戦国時代の水軍の拠点であった愛媛県の能島城や来島城では、今でも当時の係留用の岩礁ピット(岩礁で杭を立てた穴の跡)を多数見ることができますし、全国的には、石杭の他に、木杭・もやい石(岩を削り出したもの)・めぐり(岩をくりぬいて穴状にしたもの)など多種多様な係留杭があります。

 今回は、近世の係留杭についてご紹介したいと思います。

 

小豆島の「かもめ石」

 筆者は、香川県小豆島にある大坂城石垣石丁場を調査している関係で同地をよく訪れます。元和7(1621)年から寛永5(1628)年の間に、福岡藩黒田家は小豆島の岩谷石丁場において大坂城石垣用に採石に従事しました。切り出された石は海岸で船に積み込まれ、大坂に運ばれました。今でも海岸および海中には石材が今も点在しています。(大坂城石垣の「海の残念石」)。

 その岩谷地区の海岸には、地元で「かもめ石」と呼ばれる岩があります(図1)。大坂城石垣普請にまつわるものと伝承されてはいますが、はっきりしたことはわかっていません。この岩は、外観約410cm×約300cm×高さ約320cmにもなる巨石で、海岸から満潮時で約40mの沖合の岩礁地帯にあります。また、かもめ石には、上部に26cm×34cmの長方形のピットがあり、石杭(1辺約20cm×高さ47cm、花崗岩製)が差し込まれていて、ピットと石杭の間は、モルタルではなくタタキ※1で固定されています。この石杭が沖合に停泊する船の係留杭として使用されたと考えられます。しかし、筆者は当初、このかもめ石に接して困惑しました。このような遺構は、考古学的に堆積していないため時代特定が困難であること、文献史料にこのような遺構の記述が直接的に書かれている可能性は低いだろうということ等から、これ以上詳しいことは何もわからないのではないかという懸念を持ちました。

 ※1 三和土 石灰、赤土、砂利などににがりを混ぜ、水を加えて練ったもの。

 

日本海側の事例

 そこで、まずは類例調査を進めることにしました。すると、日本海側には「かもめ石」と同様の係留杭が数多く残っていることが判明しました。

 いくつか例を挙げると、まず兵庫県新温泉町居組では、木杭と花崗岩製の石杭が差し込まれた状態で現存していました。岩礁そのものは花崗岩ではないことから、石杭が外部より持ち込まれたことがわかります(図2)。この石杭は1辺が約20cm、高さが約40cmですので、小豆島のかもめ石の石杭とほぼ同じサイズです。

 また、兵庫県新温泉町諸寄の方形穴にはタタキが残っており、円状の杭と穴の隙間を埋めていました(図3)。

 新潟県佐渡島宿根木の「船つなぎ石」は、笠と四角い基礎を持ち凝った作りになっています(図4)。石杭の石材である花崗岩は瀬戸内海から持ち込まれ、安永5(1776)年頃に立てられたと考えられています。また、宿根木の近隣の小木港では、陸地から離れた砂地の海中にある岩に石杭が立てられていました(図5)。

 北海道江差町鴎島では北前船の係留のための木杭が現存しています。北前船などの廻船のルートに係留杭がたくさんあるようです。

 

石杭はどのように使われていたのか?

 千葉県富津市の房州石は、かつて石材として膨大な量が切り出され、首都圏に出荷されました。運送には船が使われ、その船積みの様子が古写真(「上総金谷港鋸山石材積込の景」明治40年~大正6年)に残っています(図6)。船の横には杭を確認でき、具体的な使用時の風景がうかがい知れます。岩礁地帯で海に突き出た岩に横付けし、そこに板を渡して石を積み込んでいます。重量物である石材を船に積み込む際には喫水に配慮する必要があることから、水深を確保できる場所が重要だったのでしょう。かもめ石が沖合にあるのも同様の理由だと考えられます。

 

石杭はいつからあるのか?

 石杭の上限年代を確実にさかのぼることができる事例は、福岡県福津市の「船つなぎ石」です(図7)。当地では、寛文11(1671)年と元禄14(1701)年に干拓が実施され、海が陸地化しましたが、そこに石杭が取り残されています。つまり、寛文11(1671)年以前、あるいは元禄14(1701)年以前には、既に係留杭としての石杭が存在していたこととなります。

 

文献史料からわかること

 近世初期に書かれた『慶長見聞集』には、江戸城普請の際の石の船積みについて「海中へ石にて島をつき出し、水深深き岸に船を付、陸と船との間に柱を打ち渡し」といった記述があり、前述の房州石の積込み事例に類似します。また、黒田家同様、大坂城石垣普請に携わった細川家・山内家の元和年間(1615~1624)の史料には、船に石を積み込む際に「波止」を築く記述があります。何らかの施設を構築したことは間違いないでしょう。

 

まとめ

 かもめ石は、それ単体の分析では、近世初期の大坂城石垣普請に関わる係留杭であるという判断は難しいかもしれません。しかし、近代であるものの石の船積みの際の係留杭としての石杭使用の事例があること、17世紀にさかのぼる他事例があること、大坂城石垣普請の際に何らかの船積みの施設を構築したこと、今回は触れませんでしたが、小豆島の岩谷集落には別の地点に防波堤を伴った船だまりがあるため村の船溜まりではないこと(波を避けることが出来ないかもめ石周辺は長期停泊する船溜まりに不適合なため)等の状況証拠から、かもめ石は大坂城石垣普請の運搬に関係する遺構である可能性が高いと考えています。

 これらのことから、かもめ石をはじめとする係留杭は、日本の前近代の海上交通や海の文化を表わす重要な遺構といえるでしょう。ここに挙げた以外にも個人的にそれなりの事例を集めたので、いつかまとめたいと考えています。

 

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図1 香川県小豆島岩谷のかもめ石(左中央)。画面中央上の石材は採石時の母岩。

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図2 兵庫県新温泉町居組の係留杭。左は木杭(上部は細っているが、基部は木材が残る)、右は石杭(花崗岩)

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図3 兵庫県新温泉町諸寄の係留杭痕。穴右角にタタキが残る

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図4 新潟県佐渡島宿根木の「船つなぎ石」

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図5 新潟県佐渡島小木漁港(小木地区)の海中にある船つなぎ石

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図6 「上総金谷港鋸山石材積込の景」明治40年~大正6年。赤枠内に杭を確認できる。

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図7 福岡県福津市勝浦所在の「船つなぎ石」。有吉康徳撮影

(企画調整部研究員 高田 祐一)

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