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大坂城石垣の「海の残念石」

2017年9月 

 豊臣秀吉が築いた大坂城は、大坂夏の陣での落城後、徳川幕府によって再築されました。その際、石垣石の採石・運搬・石積みといった石垣普請は公義普請(お手伝い普請)で行われ、主に西国諸藩が担当しました。再築にあたって将軍徳川秀忠は「石垣は秀吉のつくった石垣の倍の高さにするように」と藤堂高虎に指示し、結果、大坂城石垣は日本一の高さを誇る高石垣となりました。ここで使われた石垣石は巨大なうえ、すべて硬い花崗岩を使用しており、石垣を構成する標準的な石垣石である築石で約2トン、桜門桝形にある「蛸石」に至っては推定重量130トンにもなります。このように、大坂城石垣は、その規模や高さなどから、当時の石垣構築技術の粋を結集した到達点といえます。ではこれらの石垣石はどこから調達されたのでしょう。

 普請当初、石垣石は、伏見城石垣を転用したり、兵庫県東六甲山系や大阪府生駒山系で採石したりして調達されました。石垣の構造的に重要な部分は隅角部であり、そこで使用される石材は角石と呼ばれ、築石よりサイズが大きいうえ丁寧に精加工されます。その上、石垣用の石材は木材と違って継ぎで接合できないため、大きな角石を切り出すには元々の母岩が巨岩である必要があります。そこから風化していない良質な部分を切り出すのですが、東六甲山系には巨石が少なく、諸藩は石材の確保に難渋しました。また、重量物を運ぶには今も昔も海運が便利ですが、東六甲山系は石切場から海岸まで距離があり運搬にも不便でした。そこで、より良質で巨大な石材、特に数トンから十数トンもある角石を多数確保するため、巨岩が多く石切場と海岸の距離も近い香川県小豆島が新たな石切場となり、石材は船で大坂まで運ばれたのです。

 しかし、巨石の運搬の実態はまだあまりよくわかっていません。実態を詳らかにすべく、私たちは小豆島にある石切場とその海岸部の水中調査を実施しています。2015年の調査では、興味深い発見がありました。水深数メートルの海底に、無数の石材が集中して沈んでいたのです。これらは直方体の花崗岩で、長さ1.4メートルから2.7メートル、幅0.7メートルから1.1メートル程、表面は平らに加工されており、大坂城石垣の築石や角石の規格と合致します。また、調査地の石切場は福岡藩黒田家のものであり、文献史料により元和7年(1621)6月から寛永5年(1628)までの間に採石されたことが分かっています。さらに、当該期、黒田家は大坂城石垣の東内堀(高さ約32メートル)や南外堀(高さ約30メートル)の普請を担当していたことから、海に沈まなければ大坂城の高石垣となっていたと推定できるのです。
 さて、採石されたものの石垣に使われず、石切場などに残置された石材のことを「せっかく切り出されたのに石垣に使われなくて残念だったね」という慈しみを込めて"残念石"と呼びます。今回見つかった海底の石材は、何らかの理由で海に沈んでしまった"海の残念石"といえるでしょう。しかしこれら残念石は、当時の石垣石の採石と運搬の実態を知るうえで研究者にとっては、"幸運な石材"といえます。

 

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海中に沈む角石(香川県小豆島町 国史跡「大坂城石垣石切丁場跡」)

 

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調査風景 石材に矢穴など人為痕跡がないか確認する

(企画調整部 高田祐一)