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烏形の幢は八咫烏か

2019年4月 

 藤原宮大極殿院の南門前から2016年の夏に発見された7本の幢幡遺構。その配置と性格について、2017年3月1日の作寶楼「藤原宮の幢幡遺構を読み解く」で私見を述べました。その際に未解決の課題として残されたのが、中央に位置する烏形の幢の性格でした。この烏形幢は、四神幡や日月像と異なり、同時代の中国の隋や唐にも類例がありません。

 そこで今回は、この烏形幢の性格について考えてみたいと思います。

sahorou1.gif 前回の復習になりますが、『続日本紀』大宝元年(701)正月条に、藤原宮の正門前に烏形の幢(はた)を立て、その左右に日月像と四神幡を立てて、元日朝賀の儀式を行った様子が記録されています。日月像と四神幡は陰陽五行思想を象徴するアイテムで、陰陽が調和し、五行が規則正しく循環する姿を幢幡で表現し、理想的な国家統治を願ったものと考えられます。  

 ではその中央に位置する烏形の幢は、一体何を意味するのでしょうか。

 これを八咫烏(やたがらす)とする説は、弘仁14年(823)の『淳和天皇御即位記』に「立八咫烏日月形」とあるのを根拠としています。八咫烏とは、『古事記』と『日本書紀』の神武紀に登場するカラスで、神武天皇(神倭伊波礼毘古命 かむやまといはれびこのみこと)が九州の日向から大和に東征する際に、天皇を熊野から大和に先導したとされるカラスです。八咫烏の「咫」(あた)は、親指と中指を広げた18㎝ほどの長さで、八咫烏は全長144㎝ほどの巨大なカラスを意味します。

 一方、前回紹介した『文安御即位調度図』(図1)には、中央に描かれた銅烏幢の脇に「烏足有三」と注記され、このカラスを三足烏(さんそくう)としています。三足烏は中国の神話に登場するカラスです。伝説上の皇帝、尭(ぎょう)の時代のこと・・・ 10個の太陽が同時に現れ、地上は灼熱地獄となりました。尭は天帝に頼んで弓の名手「羿」(げい)を派遣してもらい、9個の太陽を射落としたところ、次々と黄金色をした三足烏が地上に落ちてきました・・・
 三足烏は太陽の精だったのです。

 古代の東アジアでは、太陽に三足烏が住むと広く信じられ、中国のみならず、高句麗の壁画古墳や日本の法隆寺玉虫厨子にも太陽の中に三足烏が描かれています。しかし記紀のどこにも八咫烏の足が三本であったとは記されていません。はたして中央の烏形幢は八咫烏でしょうか、三足烏でしょうか。

 この問題は、陰陽五行思想の中で、他の幢幡と一体的に理解する必要があると思います。前回、日月像と四神幡が七曜の日・月・木(青竜)・火(朱雀)・金(白虎)・水(玄武)にあたることを述べました。烏形幢は残る五行のうちの「土」にあたります。表1の五行配当表によると、「土」の方位は中央、動物は黄麟、色は皇帝の黄色とされています。烏形幢が藤原宮の中軸線上にあり、黄金色をしているのもこの配当表とよく合致しています。やはり烏形幢は太陽の化身である三足烏とみるべきでしょう。

 

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 ここで想起すべきは、皇祖神である天照大神(あまてらすおおかみ)が太陽神(日神)とされることです。先にみた神武の東征時に、河内から大和に攻め入ろうとして負傷した兄の五瀬命(いつせのみこと)が、「吾は日の神の御子(みこ)として、日に向かいて戦うこと、良くあらず」と後悔し、大きく迂回して南の熊野から大和に向かったとあります。また、万葉集に収められた藤原宮の御井の歌や、藤原宮の役民の作る歌には、「やすみしし わご大王(おおきみ) 高照らす 日の御子」とあり、地上を統治する大王(天皇)は、天照大神(日神)の子孫である「日の御子」と考えられていました。こうしたことを勘案すると、中央に立つ三足烏形の幢は、藤原宮の大極殿に出御した天皇が日神の御子であることを誇示し、皇位の正統性と国家統治の正当性を示す装置であったと考えられるのです。

 それを裏付けるのが文化3年(1806)の「冠帽図会」に描かれた天皇の礼冠の図(図4)です。これをみると、天皇が着用する冕冠(べんかん)や宝冠(女性天皇用)の上部には日形が置かれ、その中心に赤烏や三足烏らしき鳥が描かれているのが分かります。天皇礼冠の三足烏と日形像は、平安中期(長元9年1036)の源師房(もろふさ)の日記『土右記』(どゆうき)にも記されており、三足烏は古くから皇位の象徴とされてきたようです。

 もう1点忘れてはならないのが、2007年に大極殿南門の西脇から発見された地鎮遺構の富本銭です。藤原宮の長久を願って水晶とともに平瓶に納められていた富本銭は、飛鳥池遺跡の富本銭とは異なり、七曜文の中央にある「土」の点がひときわ大きく表現されていました(図5)。私は、この中央の点が富本銭の発行主体である天皇を意味し、その周囲の6点が天地四方の六合(りくごう)を意味する七曜文ではないかと指摘したことがあります(松村2010)。

 地鎮遺構と幢幡遺構は、藤原宮の大極殿院南門の南と西、わずか40mの近距離に位置するほぼ同時期の遺構です。大宝律令の完成を目前にしたこの時期は、国史の編纂による建国神話の体系化が急ピッチで進められた時期でした。五行の「土」を日の御子・天皇に見立てた7本の幢幡と富本銭の七曜文の背後に、天皇を中心とした強固な律令国家体制の構築と、陰陽五行が調和する理想的な国家統治の願いを読み取ることができるのです。

松村恵司2010「藤原宮の地鎮遺構と富本銭」『坪井清足先生卒寿記念論文集-埋文行政と研究のはざまで-』

 

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(所長 松村恵司)

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