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中国式都城「藤原京」の世界

藤原京の建設

役人の歌

役民は全国各地から徴発され、造営に関わるさまざまな仕事に従事した作業員である。『万葉集』巻一「藤原宮の役民の作る歌」からは、木材調達の様子をうかがい知ることができる。それによると、近江の田上山から伐りだした木を筏に組み、宇治川・木津川をへて、泉の津(木津)で陸あげをおこなっている。その後については定かでないが、おそらく、陸 路で奈良山を越えて大和へ入り、再び佐保川や寺川などの水路を利用して運河へと至り、宮内に運び込まれたのであろう。宮内からは「大里評」(埼玉県)と記した瓦も出ている。日本全国から人々が役民として動員されていたことを物語る。

武蔵国から運ばれた土器(左) 埼玉県の地名を書いた瓦(右)

運河造営

藤原宮の建設当初、京全体を区画していた条坊道路がまだ宮内にも残っていた頃に、造営の資材を搬入するための運河が掘られた。大極殿の北側で見つかった運河は、溝幅6〜9m、深さ2m。この運河は宮内の建物が完成する前にはすでに埋め立てられており、その役割を果たしたのはごくわず かな期間である。運河の下層からは682〜684年(天武11〜13)を示す木簡や685年制定冠位の「進大肆」 (しんだいし)木簡が出土した。藤原京の造営が天武朝に始まることを裏付ける有力な証拠である。

大極殿の北側で見つかった藤原宮造営のための運河

初めての瓦葺き宮殿

宮殿建築の屋根に瓦を葺くようになったのは藤原宮が始めてである。斉明朝にも一度、小墾田の地で宮殿を瓦葺きにする計画はあったが、実現しなかった。藤原宮の主要な建物では従来の掘立柱にかわって、堅固な基壇の礎石建ち建物が採用された。藤原京で必要とした瓦は全部で200万枚以上と推定されており、それらの生産に対応するため、大和を離れた遠隔地の瓦工場にも大量の発注をおこなった。

日高山瓦窯産の瓦

讃岐 宗吉瓦窯産の瓦

完成した藤原京の姿

持統8年(694)12月6日、持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京にうつり、「新益京」つまり藤原京は一応の完成を見る。かつては京の大きさを古代の幹線道路である中ツ道・下ツ道・横大路・山田道で囲まれた東西2.1km、南北3.2kmの範囲と考えられていた。しかし、発掘調査によってその範囲を大きく超える地域でも条坊道路が多数発見され、現在では東西十坊(5.3km)の範囲まで広がることが明らかになっている。藤原京の中心には、約1km四方の藤原宮が位置する。その配置は他の都城には見られない独特のもので、中国の理想的な王城をそのまま形にしたのではないかともいわれる。宮には天皇の住居である内裏をはじめ、大極殿や朝堂院、官庁街が建てられた。その外の市街地は「小治町」「林坊」「軽坊」などの固有名称で呼ばれ、貴族や役人の住宅のほか、市や寺院が配置されていた。

空から見た藤原宮跡 南から見る

藤原京条坊復原図

役所と役人のしくみ

藤原宮を覗く

飛鳥浄御原令にもとづく役人の組織や体制の整備に伴い、 政治や儀式をおこなう場の整備も必要となった。。藤原宮の中心には、律令政治の最高の場である大極殿を置く。大極殿は回廊で囲まれて大極殿院を形成し、その東西に大型の建物がそびえている。南には同じく回廊で囲まれた十二堂が 建ち並び、中央の広場に役人が整列して儀式をおこなう朝堂院の空間が広がる。日常的な業務をつかさどる役所の建物は、塀で区画された敷地を持ち、宮内の周辺部に配置された。

藤原宮建物配置復原図

大極殿と朝堂

大極殿は四面に廂(ひさし)が付き、 二階建風の格式が高い建物。十二堂が並ぶ朝堂院は、藤原宮で初めて定型化した。大極殿院両脇の大型建物、朝集殿、回廊をも含めた宮中枢部の建物群は、宮の中軸線に対し左右対称に 建ち並ぶ。これらは礎石建ち、丹塗り柱、瓦葺きであり、日本最初の中国式宮殿建築として威容を誇った。

朝堂院東第一堂 南東から見る

それぞれの役所

藤原宮では内裏東方や宮の西南部で役所の発掘が進んでいるが、 全体での配置や役所名など、わからないことが多い。内裏の東には方形の区画が南北に並び、宮の西や東では細長い建物も多くみつかっている。建物は檜皮葺や板葺の掘立柱建築であった。大宝律令の制定に伴う官僚機構の変化にあわせて建て替えをしている。

内裏東官衙の発掘  西から見る

役所の厨房

藤原宮で働く役人はピンからキリまで入れると約1万人。その胃袋を満たすだけの食事をまなかなうのは容易ではなかった。大炊寮(おおいりょう)や大膳職(だいぜんしき)そして各役所の厨(くりや)では、竈(かまど)の火が消えることがなかっただろう。宮廷では大小の宴会もしばしば行われる。かくして宮内の人々の食事用に、大量の土器が必要となる。そのために用いる土器が必要となる。 そのために用いる土器は非常に種類が豊富で、大型のものが多い。

藤原宮で使われた土器

末醤(ミソ)請求の木簡

役人になる

役人は所属する役所で 机に向かい、墨、筆、硯など役人の七つ道具を用いて文書を作成する。木簡の誤字を削って修正するために、刀子(とうす)は必需品だった。ここから役人を刀筆(とうひつ)の吏(り)ともいう。文字の上手・下手が勤務成績にかかわってくるので、木簡や土器などを使って字の練習(習書)をすることもあった。ある下級役人の日常の仕事ぶりを再現したのが左の写真。当時の役人のぼやきが聞こえてきそうである。

硯(すずり)の使用は文書行政の始まりを示す。当時の主流はまるい円面硯(えんめいけん)である。

藤原宮の役人

硯 藤原宮跡ほか出土

勤務評定

役人は毎年1回の勤務評定(考課)と、 4年か6年ごとに総合評定を受け、成績次第では昇進もできた。とはいえ下級役人はどんなにがんばっても五位以上に昇れず、貴族の子弟が早く出世していくのとは大違いだった。 位階昇進や考課で使用された木簡は、下級役人の哀歌を今に伝えてくれる。

勤務評定に関する木簡

役所の機構

飛鳥浄御原令では役人が系統だって組織されておらず、 名称も「職」「官」などまちまちであった。大宝律令制定で役所の名称や組織が大きく変化し、神祇官(じんぎかん)と太政官(だじょうかん)を筆頭に、太政官のもとに八省を置く二官八省の制度が成立した。各省には、職、寮、司の下部組織があり、そこで日常の仕事をおこなった。

役所名を書いた木簡

中央と地方-藤原京に集まる人と物-

役所の機構

大宝令下では、中央集権体制の確立をめざして 地方行政の整備がすすめられた。地名表記も「評(こおり)」から「郡(こおり)」へ、「五十戸(さと)」から「里(さと)」へと変わり、全国は国-郡-里の3段階に区分された。朝廷から各国に派遣された国司は、郡司となった地方豪族の力を弱めるために強い権限をもっていた。各地では五十戸を一里として戸籍をつくり、里長を決めて税をとりたてさせた。非常時の備えや人・物品の移動のために、道路や連絡手段もととのえた。律令国家のおもな統治システムはこの時代につくられたのである。

「郡評論争」

7世紀末の地方行政区分である コオリの用字をめぐる論争。大化改新詔の信憑性ともかかわる問題とされたが、藤原宮から出土した701年前後の年紀をもつ木簡により、大宝令直後まで「評」、施行後「郡」だったことが判明した。

「評」の木簡

「評」の木簡

全国の物産と税

税の制度は物資や労働力を集めて国家の基盤とするためにある。 大宝令の下では調、庸の代納品、贄などとして全国のものを都に集めた。また仕丁、力役、兵役、税の運搬などで大勢の人もやってきた。

木簡にみえる地方の産物

木簡からどんなものが税にされたかがわかる。布や漆、炭、牛皮、鉄、銭といった品目もあるが、やはり食べ物が多い。米や大豆などの穀類や野菜、とくに多いのは魚や海藻などの保存食。もちろん塩、みそ、醤油そして酒も納めさせている。

荷札の木簡

都に納めるさまざまな税には、どこから何をどれだけ運んできたか、また日付と差出人の名前を記す。これが荷札の木簡である。木簡には上端や下端に切り込みがあって、そこに蔦や藁紐をかけて荷に縛りつけたり、先端を尖らせて突き刺した。

税目の木簡 藤原京跡・藤原宮跡出土

税目の木簡 藤原京跡・藤原宮跡出土

全国の物産と税

漆の貢納

漆は塗料や接着剤として非常に有用であるために、 農民に決められた本数の木を植えさせ、税の一種として貢納させていた。原産地からは漆を原液のままで運び、都で加工させた。容器は地元産の平瓶(ひらか)や細頚壺(ほそくびつぼ)などが用いられた。容器は中身を出すときに打ち割り、工房では甕かめに貯蔵した。漆は市で売買もされたが、かなり高価な商品だったらしい。

各地から運ばれた漆壺

市のにぎわい

和同開珎の発行

和銅元年(708)、朝廷は唐の開元通宝にならって和同開珎(わどうかいちん)を発行した。富本銭と無文銀銭につづく銭貨だが、貨幣経済が未発達だったので素材自体が価値をもつ銀銭が先行した。

平城遷都の前後から銅銭が貨幣政策の中心になり、畜銭叙位法などの流通促進政策も実施された。しかし銭1枚の価値が地金よりも高かったためニセ金造りが横行し、早くも発行の翌年(709)に銀銭の私鋳銭禁止令が出ている。ともあれ和同開珎の銅銭は半世紀以上も造られつづけ、現代につながる貨幣経済の基礎をつくった。

藤原京で使われた和同銭 上から銀銭、銅銭(古和銅)、銅銭(新和銅)

初めての都市住民-藤原京の暮らし-

貴族の食膳

食器の中で最高級品は金属器である。 それに次ぐのが漆器だった。通常の木の漆器に加え、土器に漆を塗ったものもある。貴族はこれら高級な食器を豊富に使った。料理も豪華、食材も多様で、山海の珍味が並んだ。復原した食事で15品。こんな食事を続ければ、成人病間違いなし。

貴族の食膳(復原)

下級役人・庶民の食膳

当時の一般的な食器は土器。 下級役人・庶民の食器は当然ながら土師器(はじき)・須恵器すえきの器だった。

食事は1汁1菜が基本。

下級役人のメインディッシュは魚類、一杯の糟湯酒が楽しみだったに違いない。復原した庶民の食事はたったの407Kcal。これでは体がもたない。

下級役人の食膳(復原)

庶民の食膳(復原)

住む

貴族の邸宅

都の中のどこに家があるかも重要だった。出勤する宮に近い場所に、位の高い人の屋敷が多くあったようだ。朱雀門に近い右京七条一坊では1町宅地の貴族の邸宅がみつかった。約100坪の建築面積をもつ正殿を中心に、数棟の建物が整然と並んでいた。

庶民の家

発掘調査では『日本書紀』の基準にない8分の1町の宅地が確認されている。さらにこれより小さい宅地も実際にはあったであろう。これら小面積の宅地 は宮から離れた場所で多く見つかっている。しかし小さいとはいえ、8分の1町で約600坪もある。

右京七条一坊の発掘 南から見る

貴族の衣装・役人の衣装

身分に応じた服制は推古朝以降何回も変更がおこなわれたが、その基本は、大陸の制を参考とした位別の服色の規定であった。大宝律令では、上衣の色は上位から黒紫、赤紫、深緋、浅緋、深緑、浅緑、深縹(はなだ)、浅縹で、皆それぞれ漆の冠、綺(かんはた)の帯、白色の襪(しとうず)、黒皮の舃(くつ)、袴(はかま)については五位以上の者は白色の縛口(くくりくち) の袴、六位以下は脛裳(はばき)と決められた。衣の褾そで口の広さなど細かい規定も出されたが、これが実際には十分に守られず、身分とは異なる服装の者も多かったことは規制の命令(詔)がたびたび出されたことからうかがえる。

貴族の親子(奈良時代)

都市民の素顔、戯画

いつの世にも落書き・手すさびなどは存在する。漢字の練習や筆ならしもある。いろいろな動機で木簡や木製品・土器・瓦などに描かれた戯画は、当時の人々の生々しい感情を表しているのだろう。役人や僧侶と思われる都人の姿を墨で描いた木簡や木製品からは、1300年前の人々の素顔を今にうかがい知ることができる。

僧侶の姿

役人の顔

遊び、うたう

都人の楽しみはどんな事だったのだろう。貴族は歌を詠み、 隼人の相撲をみたり、碁をうって楽しんだ。独楽(こま)まわしは子供の大好きな遊びの一つだったろう。双六の博打が禁止されていることからすれば、上下を問わず相当に流行していたらしい。

新しい都は 柿本人麻呂など宮廷歌人の活躍の場でもあり、詩歌をつくることは教養の一部だった。『万葉集』には庶民の歌も多く収められている。男女の恋詩が木簡に書かれた例もある。 詩としての出来映えはいかに?

独楽 藤原宮跡出土

都市公害のはじまり

下水道・トイレ

藤原京ではトイレも発掘された。 穴を掘っただけのものと、道路側溝から邸内のトイレに流水をひく水洗式がある。お尻は縄や細い木の棒(籌木(ちゅうぎ))でぬぐった。もちろん生活排水は溝に垂れ流し。縦横に走る道路側溝は、下水道でもあった。

ところが、藤原京は中心より南の方が高い地形である。雨がふると汚水が宮の周辺に流れこんでしまい、役人たちはさぞ弱り果てただろう。

籌木 藤原京跡出土

「水洗式」トイレ 右京九条四坊

「掘込み式」トイレ 右京七条一坊

疫病と薬

病気になると皇族は内薬司で、役人は典薬寮で治療をうけた。 診療は医師・針師・按摩師(あんまし)・呪禁師(じゅごんし)らがおこなう。薬草は薬園で栽培したり、全国からあつめた。疫病は罪やけがれが原因とされたので、呪術も立派な医療行為だった。

薬の名前を書いた木簡

煎薬を作った道具 飛鳥池遺跡・藤原宮跡出土

まじない・占い・呪い

当時、呪術と政治や諸科学は一体であった。神祇官(じんぎかん)や陰陽寮(おんみょうりょう)がおかれ、まじない、占いが大々的におこなわれた。これらに用いられた斎串(いぐし)や呪文を書いた木簡、土馬などが出土している。形代はけがれを祓うために使った。

星を描いたまじないの木簡

道教の羅堰九星(らえんきゅうせい)を記した呪符木簡。治水の祭祀に用いたらしい。

土馬

祈雨に際してささげるほか、疫神の乗り物として一部を壊すことで活動を止めたり、あるいは疫神を乗せて祓い去るためのものといわれる。

斎串・人形

斎串(いぐし)は神を呼んだり祓いに、あるいは四隅に立てて結界を示すために使う。人形(ひとがた)は人間の分身としてけがれを移して使う。貴族は金属製、貴族以下は木製を使用した。呪いにも使用したらしい。人形を流す祭祀は変容しつつ、現代の流し雛や神事の紙人形へうけつがれている。写真中央は紙人形。奈良県明日香村に鎮座する飛鳥坐神社のもので、毎年6月と12月の大祓(おおはらえ)で使用されている。人形で身体を撫でて3回息を吹きかけてけがれを移し、藁船で川に流す。全国の多くの神社でも同様の神事がある。

星を描いたまじないの木簡 藤原宮跡出土

土馬 藤原宮跡出土

斎串(右)人形(左)今に生きる紙人形(中央)
斎串・人形は飛鳥池遺跡・藤原宮跡・藤原京跡出土

 

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