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天武・持統朝の世界

壬申の乱

箸墓の戦い

天智10(671)12月、天智天皇が近江大津宮で亡くなると、翌672年、吉野に隠遁していた大海人皇子(天智天皇の弟)と近江朝廷の大友皇子(天智天皇の子)の間で、皇位継承をめぐる内乱が勃発した。戦いは約1ヶ月におよび、大和、伊賀、伊勢、美濃、近江、山背、摂津、河内など、畿内とその周辺を舞台に展開した。古代史上最大の内乱で、その年の干支から「壬申の乱」とよばれている。壬申の乱で勝利した大海人皇子は、飛鳥に凱旋し、天武天皇として即位。天皇に権力を集中させ、律令国家の建設を推進する。

下の写真は箸墓の戦いの模型。

三輪君高市麻呂・置始連菟の率いる大海人皇子軍は、飛鳥古京の奪還を目的に上ツ道を進撃する近江朝廷軍の精鋭と、箸墓のほとり(桜井市箸墓近く)で戦い、これを撃退する。大和攻防の雌雄を決する最後の激戦であった。

入り乱れる両軍 箸墓の戦いの模型

文祢麻呂銅板墓誌

天保2(1831)に現在の奈良県宇陀郡榛原町八滝の丘陵から文祢麻呂の墓が発見された。当時の記録によると、墓誌を入れた銅箱と、ガラス製骨蔵器を納めた金銅製壺型外容器を墓壙内に置き、周囲を焼炭で埋め ていたようである。墓誌は青銅製で、縦26.2cm、横4.3cmの短冊形の薄板である。表面に2行17字詰めで、祢麻呂の官職と位階、没年月日を記した簡潔な墓誌銘を刻む。

「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」

この銘文によると、祢麻呂は慶雲4(707)9月21日に左衛士府の長官の職で没し、正四位上の位階が追贈された。冒頭に「壬申年将軍」とあるように、大海皇子の舎人として活躍した壬申の乱の功臣で、「日本書紀」にもその名が見える。

国宝 文祢麻呂銅版墓誌

奈良県榛原町出土

©東京国立博物館

7世紀の武器・武具

7世紀の武器や武具の出土例は少なく、古墳出土品や、正倉院に伝存する資料から推測せざるを得ない。甲は、ウロコ状の小鉄板を紐で綴り合わせた挂甲が主流で、後世の 胴丸風の短甲も存在した。

しかし鉄製の甲を使用できたのは一部の者で、一般の兵士は、せいぜい鉄板を縫い込んだ程度の綿ヨロイで身を守ったのであろう。

大刀は黒漆塗りの質素な長さ60〜70cmの直刀が主流。弓は梓や槻製の長さ2mの丸木弓を使用。矢は長さ85cm前後の篠竹製で、50本を「胡祿」に納めて腰に下げた。この他に鉾や楯も使われた。

また後の「軍防令」には、個人の標準装備として刀子や脛巾、鞋、砥石、飯袋、水桶などを備える規定がみえる。

桂甲 飛鳥寺塔心礎埋納品

天武天皇がめざした国家建設

「天皇」木簡

「天皇聚□[露ヵ]弘寅□」と記す。「天皇、露を聚めて・・・」と読むか。下折れ、右辺割れ。何らかの出典にもとづく可能性もあるが、いまのところ不明である。木簡が出土した南北溝の年代は天武朝から持統朝とみられるが、一緒に出土した木簡は天武朝頃を中心とする。天皇号が遅くとも天武朝に は存在していたことを示す確実な出土資料として貴重である。

「天皇」木簡

飛鳥池遺跡出土

国宝 金銅小野毛人墓誌

遣隋使小野臣妹子の子である毛人の墓が、京都市左京区上高野崇道神社裏山で江戸時代に発見された。その地は古代の山背国愛宕郡小野郷に属し、小野氏の本拠地にあたる。石室に納められていた墓誌は、長さ58.9cm、幅6.0cmの短冊形をしている。鋳銅製で鍍金され、毛人が天武天皇の代に太政官と刑部大卿を兼任、「丁丑年」677年(天武6)に墓が造られ葬られたことを48字で簡潔に記す。小野氏が「朝臣」姓に改められるのが、684年(天武13)であること、「大錦上」の位は死後贈られたと考えられることなどから、墓誌は墓より後に作られ、持統朝以降に追納されたと考えられている。冒頭に、天武天皇を「飛鳥浄御原宮治天下天皇」と表現する。

国宝 金銅小野毛人墓誌

京都市上高野出土 崇道神社

©京都国立博物館

毎年おこなう大嘗祭

天武天皇は、毎年秋になると、収穫を神に感謝する「大嘗祭(だいじょうさい)」を挙行した。それは、後の時代の天皇が即位した年だけに行う大嘗祭とは異なり、祭儀に奉仕する悠紀(ゆき)・主基(すき)の国を毎年定めるという異例のものであった。自らの権力の絶大さを全国の人々に誇示するためであったのだろう。

下の木簡は、三野(みの)国刀支評(ときのこおり)・加尓評(かにのこおり)(美濃国土岐郡・可児郡。現在の岐阜県)から、「大嘗祭」で用いる米を納める際の荷札。丁丑年は天武6年(677)。「次米(すきまい)」の語義については諸説があるが、次=主基の米とみるのが妥当であろう。三野国内に複数の主基郡が選ばれており、三野が国をあげて大嘗祭に奉仕したことを示す史料である。

「次米」と書かれた木簡 飛鳥池遺跡出土

飛鳥浄御原宮中枢部の復原模型

天武天皇・持統天皇の二代にわたる皇宮となった飛鳥浄御原宮は、斉明天皇が建てた後飛鳥岡本宮を整備し、拡張した宮殿と考えられる。飛鳥浄御原宮の北西には広大な苑池が作られており、華やかな宮廷生活の一端がしのばれる。

飛鳥浄御原宮中枢部の復原模型

飛鳥の総合工房-飛鳥池遺跡-

飛鳥池遺跡の発掘

飛鳥池遺跡は、飛鳥寺の寺域東南の谷ありに立地する古代(7世紀後半〜8世紀初頭)の工房遺跡であ る。遺跡名は、遺跡上に築かれた近世の溜池「飛鳥池」に由来する。この遺跡では、金・銀・銅・鉄 を素材とした金属加工、ガラス・水晶・琥珀を使った玉類の生産、漆芸、鼈甲細工、屋瓦の焼成など が行われていた。また、我が国最古の鋳造貨幣「富本銭」の生産も確認されるなど、この遺跡が古代 の最先端技術を集積した巨大な総合工房であることが明らかとなった。

遺跡の南西400mには天武天皇の飛鳥浄御原宮が位置し、南に80mほど離れた谷奥には酒船石遺跡の亀 形石槽が存在する。飛鳥の中枢部に営まれた飛鳥池工房は、相次ぐ寺院の造営や、宮廷生活、国家の 需要に大きな役割を果たした。

飛鳥池遺跡の発掘は、平成3年(1991)、飛鳥池の埋め立て工事に伴う事前調査によって、池底に眠 る遺跡が発見された。その後、埋め立て地に万葉文化館建設計画が浮上したため、1997年から3年に わたる大規模な発掘調査を実施した。

調査の結果、発見された炉跡は300基近く、他に例を見ない大規模な工房跡であることが判明。遺跡の南北の広がりは130m以上に及ぶ。調査では、谷底に1m近い厚さで堆積する工房廃棄物層を土嚢に入れて取り上げ、その数は10万5千袋に及んだ。それを全てふるいにかけて水洗し、工房関係遺物を細大漏らさず回収した。

谷あいに立地する飛鳥池遺跡谷あいに立地する飛鳥池遺跡

色とりどりの宝玉類

古代のガラスは瑠璃と呼ばれ、金銀とともに五宝や七宝にかぞえられた貴重品である。ガラス工房は、金銀工房に近接した西の谷筋に配置されている。飛鳥池工房では、緑、黄緑、青、紺、褐色に輝くガラスだけでなく、透明の水晶や、赤や黄色の琥珀を組み合わせて、色とりどりの宝玉類を生産していた。

色とりどりの宝玉類色とりどりの宝玉類 飛鳥池遺跡出土

国産ガラスの製造

飛鳥池遺跡からは、ガラス原料である鉛の鉱石(方鉛鉱)や石英が出土し、この時期に国産ガラスの製造が始まったことを示している。ガラスるつぼは底の尖った砲弾形で、つまみのある扁平な蓋を伴う。これらの外面には 製作時の叩き目が顕著にみられ、内面には熔けたガラスが付着する。ガラス小玉の鋳型は、たこ焼き用鉄板のミニチュアのような形をした土製品である。るつぼの数や容積から計算すると、百万単位のガラス玉が生産されていたようである。

ガラスるつぼ・ガラス玉の鋳型・ガラスの原料ガラスるつぼ・ガラス玉の鋳型・ガラスの原料 飛鳥池遺跡出土

興福寺金堂鎮壇具 ガラス平玉

明治17(1884)に興福寺中金堂の基壇中から発見されたガラス平玉。創建時に鎮壇具として埋納されたものと考えられる。径14〜15mm、厚さ5〜6mmの碁石形をした扁平な玉で、緑色、淡緑色、黄色、褐色、濃褐色の5色からなり、飛鳥池工房で生産されたガラスと色調がよく類似する。興福寺西金堂の造営時にガラス製造の材料を記した『造仏所作物帳』によると、黒鉛と白石をるつぼで溶かしてガラスを作り、緑青や赤土を着色料としたことがわかるが、その技術は飛鳥池遺跡にさかのぼるのであろう。

興福寺金堂鎮壇具 ©東京国立博物館

木製の製品見本(様)

鍛冶の工房では、様(ためし)と呼ばれる木製の製品見本をもとに、鉄製品を生産した。写真にみるように、のみ・釘・鏃・刀子などは、様と出土鉄製品の形がよく対応している。

様とそれを手本に作られた鉄製品様とそれを手本に作られた鉄製品 飛鳥池遺跡出土

鋳造貨幣の発行

日本最古の鋳造貨幣

これまでわが国最初の貨幣は、708年(和銅1)発行の和銅開珎と考えられてきた。ところが1998年度におこなった飛鳥池遺跡の発掘調査で、富本銭と呼ばれる銅銭が、7世紀後半に飛鳥池遺跡で鋳造されていた事実が明らかになった。『日本書記』天武12年(683)4月15日条には、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔があり、富本銭がこの天武紀の銅銭にあたる可能性が高まった。富本銭は、唐の開元通宝(621年初鋳)の規格を模倣して作られたわが国最初の鋳造貨幣で、銭文には「民や国を富ませる本」という願いをこめて、「富本」の二字が採用された。東アジア世界の中では、唐に次ぐ鋳造貨幣の発行であり、富本銭が唐に対抗する国家造りの象徴として発行されたことがわかる。

富本銭(下)の手本となった開元通宝(上)富本銭(下)の手本となった開元通宝(上)

最古の金属貨幣・無文銀銭

無文銀銭は径3cm、厚さ2mm前後の銀の円板に、銀片を貼り付け、重さ10g前後とした銀銭である。その重量は、古代の1両の1/4にあたる6銖に相当(1両=24銖)し、683年(天武12)の詔で使用を禁止された銀銭がこれにあたる。富本銭の登場以前に、定量に重量調整された地金の銀が、貨幣的機能をもって流通していたことがわかる。

無文銀銭無文銀銭 奈良県 石神遺跡出土

富本銭鋳造関係遺物の発見

飛鳥池遺跡からは、富本銭の未完成品や鋳型、るつぼやふいごの羽口、打ち落とされた鋳張り、鋳棹、溶銅、湯玉など、富本銭の鋳造時に生じた生々しい遺物が発見された。また、鋳造後の仕上げ工程に用いたヤスリや砥石も出土しており、これらの遺物から、富本銭の製作技術を具体的に復原できるようになった。

 

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