なぶんけんブログ|奈良文化財研究所に関する様々な情報を発信します。

律令国家の胎動

天皇家の大寺造営

吉備池廃寺の発掘

桜井市吉備(きび)にある吉備池の周囲を、1997 年から 5 年にわたり発掘調査をおこなった。その結果、池の東南部に張り出した土壇(どだん)が金堂(こんどう)跡であり、その西にならぶ土壇が巨大な塔跡であることが判明した。これらの東・南・西には回廊(かいろう)がめぐり、池の北方には東西に細長い僧房(そうぼう)が建ち並ぶ。幻の百済大寺の発見である。

金堂跡・塔跡.png 金堂跡・塔跡

塔心礎跡の発掘

基壇の中心には、塔の心柱を立てる礎石(心礎:しんそ)を据える。心礎自体は残っていないが、心礎を抜き取った穴は、最小でも径約 6mと巨大である。

塔心礎跡の発掘.png 塔心礎跡の発掘

吉備池廃寺の軒瓦

軒丸瓦(のきまるがわら)は、640年代に造営が始まる山田寺のものとよく似ているが、花弁が長く、先端が尖るなど、山田寺のものに比べ形態的に先行する特徴をもつ。軒平瓦は、法隆寺(若草伽藍)で用いられた唐草文のスタンプを再利用し て施文(せもん)したもの。

吉備池廃寺の軒瓦.png 吉備池廃寺の軒瓦

百済大寺と大官大寺

百済大寺(くだらのおおでら)は移転して高市大寺(たけちのおおでら)となり、 さらに大官大寺(だいかんだいじ)へと変遷する。文武(もんむ)天皇が建てた大官大寺は明日香村小山(こやま)に所在し、発掘調査により吉備池廃寺を上まわる巨大な伽藍をもつことが判明している。大官大寺以前の寺院では、吉備池廃寺の建物規模は群を抜いて大きく、その他、 諸記録と合致する点も多い。天皇家の寺としての系譜と格式を保つとみられ、吉備池廃寺こそ、長い間その場所すら明らかでなかった百済大寺の最有力候補なのである。

大官大寺の軒瓦.png 大官大寺の軒瓦

大化の改新

蘚我宗本家の滅亡

645年(皇極4) 6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、蘚我(そが)氏の中心人物 、入鹿(いるか)は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らによって暗殺された。クーデターは成功。父の蝦夷は、 甘樫丘(あまかしのおか)の邸宅に自ら火をはなち、ここに権勢を極めた蘚我家は滅びた。

飛鳥川をはさんで飛鳥板蓋宮の対岸、甘樫丘の東麓に位置する甘樫丘東麓遺跡からは、焼けた土器のほか建築部材や炭などが出土した。クーデターの際、中大兄皇子が陣をはった飛鳥寺とも対峙する位置にあり(写真奥の集落の中に飛鳥寺がある)、土器の年代観も一致することから、谷の上方に蘇我邸の存在が推定される。

1-1.jpg甘樫丘東麓遺跡

甘樫丘東麓遺跡出土遺物

焼けた土器や炭になった建築部材は、谷の上での火災を示している。土器は独特の形と技法をもち、飛鳥地域では一般的でなく南河内(かわち) 地方と一脈通じるものがある。これらの土器は、蘚我邸に集められた人びとが持ち込んだものであろう。

1-1.jpg甘樫丘東麓遺跡の出土遺物

斉明女帝の時代

水のまつり-酒船石遺跡

飛鳥寺南東の丘陵上には酒船石(さかふねいし)とよばれる石造物がある (岡の酒船石)。古くは濁酒(にごりざけ)を清酒にする施設と考えられていたが、 水を使う庭園施設の一部らしい。最近の発掘により、この石の ある丘陵は、石垣で幾重にも取り囲まれていたことがわかった。また、丘陵北裾の谷間には、亀形と小判形の2つの石槽(せきそう) を配置した石敷広場が発見され、谷の湧き水を使ったまつりの場と考え られている。これらは、斉明天皇が造営した特殊な宮殿「両槻宮(ふたつきのみや )(天宮)」の一部であろうか。

石造物全景石造物全景:手前から亀形石槽・小判形石槽・給水塔

©明日香村教育委員会

宮の東の石の山丘

酒船石のある丘陵は、発掘調査によって、裾(すそ)部に大きな花崗(かこう)岩を用いた雛壇 状の石垣を3段めぐらし、頂上部には天理市石上(いそのかみ) 周辺で産出する砂岩切石(さがんきりいし)を1m以上積み上げた石垣 でとりまいていたことがわかった。これらは、「日本書紀(にほんしょき)」 斉明紀に「宮(後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや))の東の山に石を累 (かさ)ねて垣とする」や「石の山丘を作る」という記事、さらに石を「石上山」 から運んだとする点まで合致している。

©明日香村山をめぐる石垣

©明日香村教育委員会

亀形石槽

酒船石のある丘陵の北裾では、谷の中央に石造物を設け、周囲を石敷広場や石積みの 雛壇にしていた。石造物は中央を彫りくぼめた小判形石槽と亀形石槽を連結 したもので、小判形石槽の水は、亀形石槽の頭部へ注がれて甲羅(こうら) 部分にたまったのち、尾部から北の水路へと流す。この上流部には湧き水が あったようで、「石上山」の砂岩切石を数段積み上げて囲み、あふれる水を 木樋(もくひ)などで小判形石槽に導いていたらしい。これらの施設の用途ははっきりしないが、石敷広場では、浄らかな谷の湧 き水を使ったまつりがおこなわれたであろう。

©亀形石槽亀形石槽

©明日香村教育委員会

服属と饗宴の場-石神遺跡

石人(せきじん)像や須弥山石(しゅみせんせき)が出土した水田(小字名「石神(いしがみ)」) からは、1936年の調査で石造物出土地を囲むように石組溝や石敷が発見された。石神遺跡と名づけられたこの遺跡は、1981年以降の本格的な 調査によって、7世紀前半から藤原宮期まで度(たび)重なる改造がおこなわれたことがわかってきた。最も整備された斉明朝には、長大な建物で囲まれた長方形区画が東西に2つならび、大規模な掘立柱建物群や石組池がつくられていた。「日本書紀」に記す「飛鳥寺西」にあたり、蝦夷をはじめとする辺境の民や朝鮮半島の外国使節に対する饗宴(きょうえん)の場と考えられる。 隣接する水落遺跡とともに、都の威厳を示し、服属を確認するための施設 であった。

©小石を敷き詰めた方形石組池小石を敷き詰めた方形石組池

©明日香村教育委員会

石造男女像(石人像)

花崗岩(かこうがん)一石に、異国風の顔立ちと衣服をまとう男女が寄り添う姿を巧みに表現している。男の足の下から穿(うが)たれた細い孔は、男が口にする大きな杯に貫通している。孔は途中でY字形にわかれ、大きく開けた女の口にも通じている。地下に埋没した管を通じて、口や杯から水(酒)があふれ出る噴水施設である。孔は直径3センチほど。水落遺跡に建つ漏刻台の2階を給水塔とすれば、かなりの勢いで水が噴き出したであろう。

石造男女像石造男女像(石人像)石神遺跡出土

©東京国立博物館

舶来の土器

頸(けい)部や体部に幾何学文様を陰刻する長頸壺(ながくびつぼ)は、新羅土器に特徴的なものである。新羅から運ばれた土器であろう。その他、新羅産とみられる硯や緑釉椀が出土している。

新羅産長頸壺新羅産長頸壺

時を支配する-水落遺跡

貼石(はりいし)で外装された低い基壇(きだん)上に建つ楼閣(ろうかく)は、660年(斉明6) に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が初めて造った漏刻(ろうこく) (水時計)台であった。1階中央に漏刻を、2階には鐘鼓(しょうこ)をおいて時を知らせた。 柱を地下の礎石(そせき)に彫られた孔に 固定し、礎石どうしも玉石によって互いに連結される。基壇内部は給排水の木樋暗渠(もくひあんきょ)が縦横に走り、 中央には台石上に長方形の漆塗木箱を据えて、その北半(建物の中心)に正 方形の小型漆塗木箱をおく。天子が作った漏刻によって得られた「時」 にしたがって、官僚や民の生活が管理されてゆく。

新羅産長頸壺貼石で外装された漏刻台跡

花開く飛鳥の仏教文化

山田寺の発掘調査

中心部は塔と金堂を南北に並べて回廊で囲み、その北に講堂、講堂の北と東西に僧房(そうぼう)などを配置し、ところどころに幢幡(どうばん)を飾っていた。これらの外は南北約186m、東西約118m の範囲を塀で区画し、8世紀中頃になって東北に1院を新設している。また、9世紀後半〜10世紀前半には、宝蔵や外の塀などを改修し 、11世紀前半には東面・南面回廊や宝蔵が倒壊する。その後、1187年 (文治3)には興福寺僧兵の乱入によって、塔、金堂、講堂 が焼亡してしまうが、鎌倉時代には旧講堂上に本堂が再建されたらしいことも判明した。

金堂跡

倒壊した山田寺東面回廊

金堂と塔を囲う回廊は、法隆寺西院(さいいん)回廊と同じ単廊という形式である。その東側 と南側の一部が、横倒しになった状態で発見された。これらの部材 の発見により、法隆寺より古い建物の具体像があきらかになり、 7世紀の建築に新たな事例を加えることができた。

倒壊した回廊

堂内を飾った磚仏

金堂や塔の週辺からは、数多くの磚仏(せんぶつ)が出土した。 釘穴があるほか裏面には壁土が残り堂塔の内壁に飾られていたことが わかる。法隆寺玉虫厨子(たまむしのずし)の内部のように、無数の仏があふれる世界が想起される。出土した壁材から、金堂には壁画があったことも確実である。

金箔が残る磚仏

山田寺金堂軒先復原

屋根に葺(ふ)かれた瓦のほか、屋根を支える垂木先瓦(たるきさきがわら)には彩色が施され、中央部 には垂木に固定する釘を隱すよう、金色のフタをしている。金堂軒先部分の 華麗さをうかがうことができる。

創建金堂軒

金堂軒先の復原

川原寺の瓦

川原寺(かわらでら)は、大津宮遷都以前(天智朝)に、斉明天皇の殯(もがり)をおこなった 川原宮の故地に創建された。斉明天皇の13回忌にあたる673年(天武2) に川原寺で一切経(いっさいきょう)を書写した記事が「日本書紀」 にみえ、このころ寺院として整備されたのであろう。藤原宮期を通じて、川原寺は官の三大寺や四大寺に数えられる格式を保った。1957~59年の発掘調査によって大理石の礎石をもつ中金堂の南にず金堂と塔が対面し、中金堂の北に講堂を配して僧房で取り囲む伽藍(がらん)配置が判明した。大ぶりで華麗 な複弁(ふくべん)八弁蓮華文(れんげもん)軒丸瓦の採用とともに、新 時代の幕開けを象徴している。

創建軒瓦

川原寺塔跡の発掘

比較的残りよい塔基壇は、創建規模を踏襲しながら、鎌倉時代に修復されたもの。創建期の塔心礎は、鎌倉時代の心礎の下から発見された。

塔跡

川原寺裏山遺跡にみる仏の世界

鎌倉時代に川原寺は焼失する。壊れた仏像は集めて西北の山裾に埋められた。それが 川原寺裏山遺跡である。丘陵裾(すそ)でみつかった方形 三尊磚仏(さんぞんせんぶつ)は千数百点、塑像は大小各種 数百点に及び、創建当初の堂塔内の華麗さがしのばれる。

塑像断片 天女頭部

©明日香村教育委員会

白村江の敗戦と大津宮遷都

防衛施設の強化と大津宮遷都

白村江での敗戦後、唐・新羅の侵攻に備えて、亡命した百済将軍による指導のもと、北部九州から大和に至るまで防衛施設が設けられた。天智3年(664) 、対馬嶋(つしまのしま)・壱岐嶋(いきのしま ・筑紫(つくし)国に防人(さきもり)と烽(とぶび)を置いて警備を厳重にし、大宰府防御のため水城(みずき)や大野城、椽城(きじょう)(基肄城(きいじょう))を築いた。667年(天智6)には、大和の防御のために高安城(たかやすじょう)を築き、畿内の田税(たちから)、殻、塩を備えている。記録には見えないが、鬼ノ城(きのじょう)、大廻小廻山(おおめぐりこめぐりやま)など瀬戸内で発見 される朝鮮式山城や、おつぼ山、帯隈山など北部九州の神籠石(こうごいし)も自然の要害を基礎にした防衛施設である。対策の素早さと強固な防衛施設の建設が、危機感の強さを物語っている。667年の飛鳥から大津宮へのにわかな遷都、それも畿外である近江への遷都には、宮廷人の多くが不満と不安を抱いた。この遷都には、近宮の地が要衝の地であるからだけでなく、国政改革を飛鳥の旧勢力から離れておこなうとする意図も読みとれる。近年の発掘調査によって、大津宮中枢部の一端も明らかになりつつある。

大津宮の内裏南門と回廊

©滋賀県埋文センター

瀬戸内で発見された防衛施設-鬼ノ城

岡山県総社市に残る防衛施設のひとつ。朝鮮式山城で、自然の山をとり巻くように高さ3m以上の土塁や石垣を、延長約2.8kmにわたって築く。石垣の各所 には水門や城門を設けている。現在、国指定史跡として整備されている。

鬼ノ城南門跡

©総社市教育委員会

防衛の最前線−太宰府の水城

福岡県太宰府市は唐・新羅の侵攻に備える防衛の最前線であった。大宰府の西から大野城までに長さ1.4kmを幅80m、高さ10mほどの巨大な堤でふさぎ、博多側に幅 65mほどの水濠をつくっていた。写真は太宰府市、大野城市に残る水城の全景。背後に見えるのが大野城。

水城全景

©九州歴史資料館

 

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