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飛鳥時代の幕開け

古墳文化の華-藤ノ木古墳-

馬具(1)棘葉形杏葉

神仙思想の色濃い三角縁神獣鏡、ゴージャスな金製耳飾、無骨な甲冑など、古墳時代を彩る遺品は数々あるが、その終わりに咲いた花といえば、藤ノ木古墳の馬具をおいて右に出るものがない。

1-1.jpg©奈良県立橿原考古学研究所・文化庁

馬具(2) 鞍金具(複製)

銅に金メッキしたこの金銅製馬具、なかでも華麗な文様に飾られて輝く鞍金具は、見るものに匠の技の冴えとまばゆい金色で深い印象をあたえる。法隆寺にほど近い藤ノ木古墳が発掘調査され、横穴式石室奥の家型石棺の裏からこれらの馬具類が発見されたとき、それらは歴史の年月ともいうべき厚いサビに覆われていた。それを最新のテクノロジーでみごとにぬぐい去ったのは、科学者の深い知識と工夫の賜だった。

1-2.jpg©奈良県立橿原考古学研究所・文化庁

鞍金具復元品

埋葬当初のきらめきをとりもどした鞍金具は、今度は現代の匠によって復原される。1400年の時を隔てて競い合う二つの作品。最初の作品をてがけたのは、どこの国の匠だったのだろうか。

保存処理によって金色によみがえった馬具をもとに、実際にその復原を試みた。彫金をおこなったのは、金工家の園幸男氏である。鏨で彫られた痕跡を詳しく顕微鏡で観察し、新たに鏨を作るところから始めた。金工技術も含めて、オリジナルにごく近い復原である。

この復元作業を通して、古代金工技術のレベルの高さを改めて学ぶことができた。

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馬具の保存処理

1400年のあいだ閉じられたままであった藤ノ木古墳から出土した大量の副葬品に対して、奈良文化財研究所では、約10年間におよぶ保存処理をおこなった。

それぞれの材質や構造はX線分析装置などを用いて詳しく調査され、これをもとに、それぞれの遺物に適切な方法がとられた。鞍金具や杏葉などの馬具は、厚い緑色のサビに覆われていたが、銅板の上に金メッキしたものであることがわかった。

当研究所では、高吸水性樹脂に含ませた薬品をサビの表面に反応させて、サビだけを除去する特別な方法を開発し、馬具の表面を傷つけずにオリジナルな金の輝きを取り戻すことに成功した。これにより、古代の金工技術を詳しく研究できるようになった。

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仏教の受容-飛鳥寺・法隆寺若草伽藍-

飛鳥寺の中門と南門の発掘

1956年から奈良文化財研究所が飛鳥寺中枢部の発掘調査を実施し、文献では知ることができなかった多くの事実が判明した。とくに、塔を中心として東・西・北の三方に金堂を配し、中門から発する回廊がこれらを囲む得意な伽藍配置であることがわかった。

この伽藍配置は日本には類例がないが、高句麗の清岩里廃寺(現平壌市)と酷似している。

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飛鳥寺 東金堂の発掘

東西両金堂の基壇が2段になっており、下段にも小さな礎石をおいて柱を立てる特異な建物であることが明らかとなった。同様の建築は日本になく、百済の定林寺(現扶余邑)などに類例がみられる。

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飛鳥寺塔心礎の埋納品

地下式の塔心礎上面からは、鎌倉時代に一度掘り出されて再埋納された金銅製の舎利容器とともに、数多くの埋納品が出土した。その中には、鉄製の挂甲(よろい)や小刀、金銅製の馬鈴のほか、勾玉や管玉などのさまざまな玉類が含まれていた。 これらの埋納品は、古墳の副葬品と大差がない。しかし、一方では金銀の小粒や延板など、8世紀の寺院で基壇築造時の祭儀に用いる鎮壇具と同様のものもあり、古墳時代を想起させる品と新時代の萌芽を示す品とが混在している。

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飛鳥寺の瓦

飛鳥寺の創建に使われた瓦は、瓦当文様や制作技術の特徴から、二つのグループに分類できる(通称「花組」と「星組」)。そして、これらと同様の瓦当文様や制作技術は百済にも認められ、『元興寺縁起』が記すとおり、百済から派遣された瓦博士が飛鳥寺の瓦生産に深く関わっていたことがわかる。

2-4.png飛鳥寺の創建軒丸瓦

斑鳩寺(若草伽藍)塔跡の発掘

聖徳太子(厩戸皇子)が斑鳩の地にみずからの宮殿(斑鳩宮)とともに造営したのが法隆寺(斑鳩寺)であった。その伽藍は、今の法隆寺(西院伽藍)の南東、若草の地にあるため、若草伽藍と呼ばれる。現在、地上には巨大な塔の心礎しか残らないが、見つかった瓦は遠く飛鳥寺や四天王寺と同じ木型(瓦笵)で作られたことがわかっている。大使一族の上宮王家と蘇我氏が親密であったことをうかがわせる。

2-5.png若草伽藍塔跡の発掘 北西から見る

斑鳩寺(若草伽藍)の瓦

若草伽藍金堂の軒丸瓦は、花びら9枚の蓮華文と花びら8枚のものと2種ある。それぞれ飛鳥寺及び四天王寺と同笵(同じ木型で制作)である。仏教伽藍に欠かせない瓦作りの工人は、いまだ少人数だったのだろう。軒丸瓦の唐草文は手で彫ってある。

2-5.png若草伽藍の軒瓦 法隆寺

飛鳥の宮殿-豊浦宮・小墾田宮-

豊浦寺下層でみつかった豊浦宮の建物

豊浦宮での推古天皇の即位は、崇峻天皇暗殺のわずか1ヶ月後のことであった。したがって、新たに宮殿を造営したとは考えられず、ここに拠点をかまえていた蘇我氏の邸宅の一部が宮殿に転用されたものとみられる。地形上、その範囲は最大でも150×80m程度だろう。なお、豊浦宮はその後、僧寺である飛鳥寺に対して尼寺(豊浦寺)となった。発掘調査では、講堂や金堂の下層から、石敷をめぐらす掘立柱建物や礫敷がみつかっている。

3-1.png 豊浦寺下層で見つかった豊浦宮の建物跡

「小墾田宮」と書かれた墨書土器

雷丘(いかづちのおか)の東を中心とする一帯には、飛鳥時代から平安時代はじめまで、小墾田宮(おはりだのみや・小治田宮)が営まれた。

発掘調査では、「小治田宮」の墨書土器のほか、飛鳥時代の池や奈良時代の倉庫群の一部を確認している。

3-2.png 「小治田宮」と書かれた土器

©明日香村教育委員会

飛鳥と渡来人-檜隈寺、飛鳥時代の瓦と韓式土器

檜隈寺の瓦

5世紀後半に来日した今来漢人(いまきのあやひと)は、飛鳥の中心部、飛鳥寺から石舞台古墳のあたりに定住した。6・7世紀には、渡来系の人々が飛鳥各所に住まっていた。彼らを束ねた東漢氏(やまとのあやうじ)は、飛鳥の西南部、檜隈に本拠を構え、檜隈寺を建てた。このほか、鞍作氏の坂田寺、平田氏の立部寺、軽氏の軽寺、大窪氏の大窪寺など、飛鳥に甍を競った寺の多くは渡来人の手になるものであった。

檜隈寺の軒丸瓦檜隈寺の軒丸瓦

檜隈寺の瓦

飛鳥寺造営の1世紀あまり前から、飛鳥・軽・身狭(むさ)・檜隈の地には多くの渡来人が定住し、手工業技術や宗教、言語などの知識をもって重用されてきた。衣食住全般にわたり、祖国での生活をまもった彼らが使った土器が韓式土器である。彼らは在来の人とは違って、竈に胴部の長い甕をかけて湯を沸かし、その上に円筒形で底に孔の開いた甑をのせて蒸し、取手の付いた深い鍋や平底鉢で煮物や雑炊を作った。

雷丘東方遺跡・藤原宮跡下層出土 雷丘東方遺跡・藤原宮跡下層出土

 

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