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平城宮の跡の面影

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一条通り改修以前(昭和23年(1948))の空中写真と奈良時代後期の平城宮復原図

通称一条通りの今昔

 平城宮第一次大極殿の北側を東西に通る道は、通称、一条通りと呼ばれています。本来の一条通り(古代の一条南大路)よりも北にずれているのですが、東に向かえば法華寺町で本来の一条通りに接続します。西に向かえば、奈良ファミリーの南側を通って大和西大寺駅北口前に出る道です。

 この道の平城宮跡内は、戦前まではカーブが多くて狭い道でした。それを昭和28年~29年(1953-54)に改修して現在の形にしたのですが、その時に、奈良時代の築地回廊の痕跡が、とても綺麗な状態で見つかりました。それをきっかけとして、平城宮跡を詳しく発掘調査する必要があると認められ、調査を奈文研が担当することになり、今日に到ります。

遺構を踏まえた道路

 では、なぜ道路の下に、奈良時代の築地回廊が残っていたのでしょうか。それは、築地回廊の跡を道路に利用したからだと私は思います。

 この道にあった小さなカーブは、古代の遺構に対応しています。上記の画像をご覧ください。

 これは道路改修以前の空中写真と、奈良時代後期の平城宮復原図を重ねたものです。いま第一次大極殿が復元されている場所は、奈良時代後期には「西宮」という宮殿だったと考えられています。通称一条通りを西(左)から東(右)に進むと、道路は、その西宮の北面築地回廊の上を通るために、この部分で少し北にずれています。この小さなカーブは今もそのまま踏襲されています。

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第一次大極殿地区にさしかかると道路は北にずれる 西から東を望む

 道路をさらに右(東)に進むと、今度は内裏外郭の北面築地回廊部分を通ります。そして内裏の区画を抜けると、道路がまたカーブして南にずれていました。この部分は、今は直線道路に直っていますが、その横に旧道が残っています。

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内裏地区の北側では改修前の旧道が残る(右の砂利道) 南東から北西を望む

 道がこのような形になったのは、築地回廊の跡は地盤が堅く、道路に適していたからだと、私は思います。微妙な地形を利用した、まさに遺構を「踏まえた」道路と言えます。

平城宮の面影を追って

 平城宮は、都が京都に遷った後に田園に変わりますが、宮の面影を各所に残していました。このような古代の面影は、今改めて確認することも必要でしょう。現在、文化遺産部では、平城宮地域に残る文化遺産を調査しています。普段目にする何気ない事柄も、実は何かの歴史を伝えているのかも知れません。皆様も調査にご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

 令和6年(2024)の今年は、聖武天皇が即位して1300年目にあたります。その聖武天皇の大嘗祭に関する木簡が、今年発見されました。来週10/22(火)よりその特別展を開催しますので、興味がありましたら是非ご覧・ご参加くださいませ。

特別展:「聖武天皇が即位したとき。―聖武天皇即位1300年記念―」
https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/kikaku/heijo20241022.html

(文化遺産部長 吉川 聡)

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