2024年6月
7世紀末から8世紀初めに築かれたキトラ古墳や高松塚古墳の壁画は、漆喰の上に色鮮やかな顔料で繊細に表現されており、九州を中心に分布する装飾古墳の原始的な壁画とは区別して、極彩色古墳壁画とよばれています。壁画にみる天文図や四神、十二支像、人物像の内容から、朝鮮半島や中国大陸からの影響が指摘されてきましたが、高句麗や百済は7世紀中頃に滅亡し、またその末期の壁画は石室の石材に直接描かれます。そのため近年では、キトラ古墳・高松塚古墳の極彩色壁画は中国からの影響とみる説が有力となっています。
高松塚古墳壁画の発見当時から引き合いに出されてきた永泰公主(えいたいこうしゅ)墓は、唐の都・長安の郊外にあります。永泰公主は四代皇帝・中宗の娘で、政治闘争に巻き込まれて亡くなりましたが、中宗が即位すると身分を回復され、高宗の墓の近くに埋葬されました。墓は非常に大型で、長い墓道を下った地下の奥に墓室があります。墓道の入り口の東・西壁には青龍・白虎が描かれ、その背後には建築物や武器・武器をもった兵士等も描かれています。
墓室は前・後二室あり、前室の東・西壁には多くの女子人物が描かれています。高松塚古墳の女子群像と比較すると、衣服の表現は細部で異なっていますが、如意(にょい)や円翳(えんえい)、払子(ほっす)などの持ち物は共通します【写真1】。唐の記録である『新唐書(しんとうじょ)・百官誌(ひゃっかんし)』には、宮廷女官の持ち物が事細かに記載されており、それとの対照から永泰公主墓の女子群像は当時の女官を描いたものと考えられます。
【写真1】 永泰公主墓 宮女図 『新城 房陵 永泰公主墓壁画』(2002)
女官の壁画は永泰公主墓だけではなく、中宗の第二皇子であった懿徳太子(いとくたいし)の墓でも発見されており、前・後室あわせて50名余りの女官が描かれています。唐代の官・法制をまとめた『唐六典(とうりくてん)』からは、従八品位相当の女官が百人ほど配置され、太子の日常生活を世話していたことがわかります。また、『旧唐書(くとうじょ)・職官誌(しょくかんし)』では、従五品位の官人が宮中で太子に奉仕したことを記録しています。懿徳太子では、笏(しゃく)を持つ男子群像が描かれていますが【写真2】、唐の時代では官職がなければ笏を持つことができませんでした。
【写真2】 懿徳太子墓 内官図 『懿徳太子墓』(2002)
永泰公主墓と懿徳太子墓はともに706年に造られたことがわかっています。同時期に築かれた唐の壁画墓の内容からも、高松塚古墳の女子・男子群像も被葬者にお付きの官人であったとみてよいでしょう。
参考文献
周天游2002『新城房陵 永泰公主墓壁画』文物出版社
周天游2002『懿徳太子墓壁画』文物出版社
(飛鳥資料館アソシエイトフェロー 楊 萌)