2024年6月
今年、令和6年の4月半ば、現在進めている丹後地域の出土文字資料調査の一貫で京都府立丹後郷土資料館を訪れました。その際、館の目の前に整備されている丹後国分寺跡を、学芸員さんお勧めのビュースポットとして案内していただく機会がありました。
丹後国分寺は、天橋立を望む景勝の地に建てられました。天橋立は、日本三景の一つで、全長約3.6キロメートルの砂州に松が生い茂る自然地形です。天橋立の主な眺望の地は、時代によって様々な評価がなされてきましたが、近年は、西方からの眺めの樗峠(おうちとうげ)(現在の大内峠。一字観)、北方の成相山(なりあいさん)中腹の傘松(股のぞきで著名。斜め一字観)、東南方向の、雪舟の天橋立図の構図となった地(獅子崎展望所。雪舟観)に加えて、南方の文殊山頂上に造られた天橋立ビューランドからの眺望(飛龍観)が四大観と呼ばれています。残念ながら、丹後国分寺の地は現在の主要な「絶景」から、選に漏れてきました。
しかし、国分寺跡から天橋立を望むと、天平13年(741)の国分寺造立詔(こくぶんじぞうりゅうしょう)の著名な一節が思い起こされます。「其(そ)の造塔(ぞうとう)の寺は、兼(か)ねて国華(こっか)とせむ。必ず好(よ)き処(ところ)を択(えら)びて、実(まこと)に長久(ちょうきゅう)たるべし。人に近くは、則ち薫臭(くんしゅう)の及(およ)ぶ所を欲(ほっ)せず、人に遠くは、則ち衆(もろもろ)を労(わづら)はして帰集(きしゅう)することを欲(ねが)はず」(『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』巻3、国分寺事所収、2月14日勅)。国分寺の地は、丹後国一宮である籠(この)神社からはおよそ1キロメートル西にあたり、国府はいまだ確定していないものの、丹後国の中心地からは少し離れた地にあったようです。国分寺は、よい場所を選んで建てられ、長く久しく続くことが期待され、その地は、人々の汚れを避けるとともに、人々が集まるに不便でない場所とされています。そうであるならば、この地は「好き処」で、その眺めは、天平びとが美しいとみたものといえるのではないでしょうか。この眺望は、近年「天平観」と名付けられているとのことです。
心地よい春風に誘われ、古代に思いをはせたあと、文字が記された土器の調査に着手しました。天平びとの感覚に少し近づけたからでしょうか、これまで読めていなかった刻書土器について、その読みを提案することができました。地域に即して史料を理解することの大切さを、あらためて確認することができ、貴重な成果となりました。調査の成果は、研究に加わっていただいている京都府立丹後郷土資料館の学芸員さんにより、ちかぢか紹介されることになっています(『丹後郷土資料館調査だより』13号掲載予定)。
丹後国分寺跡からみた天橋立の眺め(2024年4月撮影)
(文化遺産部歴史史料研究室長 山本 崇)