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名は体を表わす?

2023年6月

 加曽利貝塚に三内丸山遺跡、埼玉古墳群に平城宮跡。国の特別史跡として多くの方が親しみ、中には世界遺産として世界に名を轟かせるこれらの遺跡。ところで、これらの遺跡の「名前」がどうやってつけられているかご存じでしょうか。

 現在一般的なのは遺跡が所在する地名を遺跡名とする方式です。例えば三内丸山遺跡があるのは青森県青森市大字三内字丸山で、埼玉古墳群は埼玉県行田市埼玉にあります。加曽利貝塚があるのは千葉市若葉区桜木町ですが、旧地名は千葉郡都村加曽利ですのでやはり地名に由来する遺跡名といえます。全国47万か所以上とされる遺跡の多くはこうして名づけられ、都道府県や市町村が管理する遺跡台帳に登録されています。

 一方で少しさかのぼってみますと、昭和の初めごろには各村や町ごとに全ての古墳に1番から順に番号を付けて名前としようとした試みもあったようです。奈良県の北部、佐紀古墳群中の古墳の名前にはそうした名残が残っています。金の鈴が出土したから金鈴塚古墳など特徴的な出土品から名づけられたものや、地元の伝承の名前がそのまま遺跡名とされた場合もありました。現在のような遺跡保護の制度や体制が確立し始めた1970年代以前の方が、遺跡の名前の付け方はバリエーションに富んでいたと言えるかもしれません。

 そうしたさまざまな試行錯誤(?)に比べ、地名から名づける現在一般的な方式は少し味気ない気もします。ところが地名と遺跡の関係は時に複雑です。

 東京都大田区にかつてあった前方後円墳、観音塚古墳の上には、その名のとおり観音堂が建てられていました。観音塚古墳や権現山古墳など、後世になって古墳の上にお堂が建てられたことで呼びならわされ名づけられた古墳は全国にたくさんあります。この大田区の観音塚古墳もその一つですが、この古墳の上に観音堂が造られた理由がとてもユニークなのです。江戸時代のいつごろかこの観音塚古墳から人物埴輪が出土しました【写真】。今でこそ熱心なファンも多い埴輪ですが、当時の人たちの目には人物埴輪は観音様と映ったようで、出土した「観音様」を祀るため観音堂が古墳の上に建てられました。こうしてこの古墳は観音堂があった古墳として後に観音塚古墳と呼ばれることになったのです。

 遺跡があったこと、そしてその片鱗を知った当時の人がどのように考え、振る舞い、現在の遺跡の由来となる名前が生まれたのか。遠い過去と、ちょっと遠い過去と、そして現在が繋がっている。そんな感覚を感じさせてくれる遺跡名です。

 近年の各地の豪雨災害に際して「地名」に注目が集まりました。地名にはその土地の来歴を物語るものがあるからです。遺跡の名前もその土地のストーリーを知る手がかりになることもありそうです。たかが地名、されど地名。今後遺跡巡りなどをされる際には、遺跡の名前にも注目してみるとこれまでとは少し違った地域の姿が見えてくるかも知れません。

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【写真】観音塚古墳の名前の由来となった人物埴輪(大田区立郷土博物館1992『大田区古墳ガイドブック―多摩川に流れる古代のロマン―』より)

(都城発掘調査部主任研究員 川畑 純)

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