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達磨さんのおはなし

2023年1月

 「日本最古」には事欠かない奈良の地だが、王寺町達磨寺の木造達磨座像【写真1】は、日本最古はよそに譲って、「日本で二番目(ぐらい)に古い達磨像」という、なかなかに奥ゆかしい地位を主張している。

 この達磨座像にはその由来が書き込まれており、永享2年(1430)の年紀や、造像に時の将軍・足利義教が関わったことなどを伝える。足利義教といえば「万人恐怖」の恐怖政治で知られる。となれば、「日本最古」としておいた方が身の安全に良いようにも思う。

 そこで、「日本最古の達磨像」を探すと、京都府八幡市円福寺の木造達磨大師坐像に行き当たる。八幡の地で語り伝えられてきたその由来は、こういうものだ。

 大和国片岡達磨寺の聖徳太子お手製の達磨像を、戦乱を避けて八幡に運んだ。時は寛正の頃、1460年を少し過ぎた頃のこと。これが、円福寺の達磨大師座像である。

 「日本最古の達磨像」は達磨寺から円福寺に運ばれた達磨大師座像で、「日本で二番目に古い達磨像」は達磨寺に今もある達磨座像。円福寺への運搬が1460年過ぎで、達磨寺達磨座像の造像が1430年。1430年作の達磨さんは達磨寺にずっといて、1460年に運び出された達磨さんもいる。折角語り伝えるなら、もう少し辻褄を合わせておいて欲しい。

 そして伝承を紐解くと、達磨運び人は「片岡大和守光次」なる人物だという【写真2】。片岡氏は、現在の王寺町から香芝市にかけての地域に盤踞した中世武士団だ。興福寺別当尋尊に「天魔」と呼ばれた片岡雲門寺蔵主を輩出するなど、勢力を誇っていた。

 さて、片岡氏の系譜は、奈良県内には数種類伝わる。いずれも近世のものだが、その内容が、全くバラバラ。唯一の共通登場人物が「片岡新介春利」。彼は、松永弾正久秀の大和侵攻を跳ね返した、戦国末期の片岡谷のヒーローだ。江戸時代の片岡周辺の有力者にとって、自家の系譜が、この片岡谷のヒーローと繋がっていることが重要だったのだろう。

 一方、「新介」より偉そうな「大和守」の片岡光次だが、大和側の資料には出てこない。彼の名前と事績は、石清水八幡宮に仕えて神人となった光次の子孫が伝えた。八幡の片岡一門にとって、光次は始祖であり、達磨像は誇りであり、由緒を伝える象徴だった。

 達磨さんが武士団の誇りというのも迫力に欠ける気もするが、そもそも戦いに勝利して達磨像を守るのでは無く、背負って逃げて守ったという、武門としてはいささか心許ない人物を一門の始祖と仰ぐのだから、平和主義で良い、としておきたい。

 王寺も、八幡も山と川の交わる国境の地だ。修験の道とも重なるこの山と川を行き来した中世武士団のネットワークを、聖徳太子伝承に連なる達磨像が伝える。大和といい、山城といい、河内といい、古代以来、土地に積み重なってきた時間の妙味、かくもあるものなのである。

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【写真1】木造達磨坐像

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【写真2】石清水片岡氏の系譜

(都城発掘調査部平城地区史料研究室長 馬場 基)

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