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産婆の忘れられた物語

 一九三五年三月九日、『朝鮮日報』に「阿峴里の嬰児屍は日本内地人?」という題で次のような記事が掲載されます。

 去る五日府〔京城(ギョンソン)府―筆者註〕外阿峴里(アヒョンリ)の便所で発見された嬰児の死体は解剖した結果、他殺遺棄に判明され、その間龍山(ヨンサン)警察署では阿峴里と徳里(ゴントッリ)を中心に犯人を厳しく捜している中、七日朝に産婆を連れて行って死体を見せた結果、意外にもこの子は生まれた際に相当熟練した産婆の手を経たことと、また、へそ〔の緒―筆者註〕を切る方法が従来の朝鮮方法ではなく、日本内地人が行う方法を使っていることが判明され、この署ではその間の捜査方針を変更し、その近くの日本内地人の方へ監視を厳重にしている

 この記事から、当時の朝鮮社会の「出産の場」を取り巻く情報をいくつか読みとることができるでしょう。

 まず、当時産婆が活動していたこと。また、へその緒を切る方法が朝鮮伝統の方法と日本内地人産婆の方法とでは異なっていたこと。さらに、産婆は警察に協調していたこと、などが読み取れます。ここでいう産婆は、免許を取得した助産専門家を意味します。

 私の研究は、このように新聞記事などに現れている植民地朝鮮社会の「出産の場」がいかに構築されていたかという問いに答えようとするものです。 

 特に近年は、在朝日本人産婆に着目して、彼女らがどのように生活を営んでいたのか、彼女らの活動が朝鮮にどのような影響を及ぼしたのかについて研究しております。

 韓半島には植民地期以前から日本人が居住して、働いていました。特に都市部には日本人女性も多く住んでいたので、当然日本人産婆も活動していました。

 しかし、彼女らの朝鮮での生活や活動については、今までほとんど研究されてきませんでした。このため、彼女らの物語は忘れられている状態となっています。

 そもそも女性の職業に関しては統計などの公的資料が少ない上に、産婆は個人開業が多く、妊婦の個人情報を取り扱う職業であるため、公開されている情報や資料が、他の職業よりも少ないことが研究の進展をはばんできました。そのため、私は、上記のような新聞記事をかき集めて、当時の状況を再構成する研究手法をとっています。

 例えば、【写真1】は、1908年の『京城新報』に載った「著名産婆案内」という広告です。この広告を通じて、彼女らか開業した住所、「内務省免許」や電話の有無、産婆業と共に「官許胞衣取扱所」を営んでいた人がいたことなどの情報を把握できます。

 このような情報を悉皆的に集めて、総合的に検討すれば、近代に朝鮮で活動した日本人産婆たちの開業場所、資格、兼業の状況などを明らかにする、意義あるデータとして提示できるはずです。

 その調査は、目を見張って5ポイント程度のとても小さな文字をひたすら読むことですが、忘れられた物語をその主人公に戻せることができるのなら、嬉しい苦労と言えます。

 

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【写真 1】『京城新報』1908年1月17日の「著名産婆案内」(名前・番地伏せ)

(企画調整部アソシエイトフェロー 扈 素妍)

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