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幻の「へんつき」

2022年5月

 平城宮跡から出土した習書木簡の中には、同じ部首の漢字を取り合わせて書いたものがあります。なかには、写真1のように、おそらく偏(へん)を先に書いて、その隣に旁(つくり)を足したのではないかと推測されるものもみられます。当時の官人たちがどのように漢字を練習していたか、その情景がありありと目に浮かぶ資料です。

 同じような書写練習の痕跡は、漢字の国――中国でも発見されています。たとえば、敦煌文献(BD01957紙背)に、下記のような文字遊戯詩(「遠方に行く人を送別し、道はとどこおりなく通っている。道に近いところを歩き回り、遠近を通り過ぎる人と出逢う。往路と帰路では、はやくも遊びほける」)が書かれています。

送遠還通達 逍遙近道邊

遇逢遐迩過 進退速逰連

 平城宮跡の習書木簡は〈遊び〉ではないようですが、もしかすると、その後の時代に、同偏漢字を用いた〈ゲーム〉があったりしなかったでしょうか。この疑問を抱きながら調べてたどりついたのが、「へんつき」というものです。

 昭和9年に出版された『日本遊戯史』では、「偏継(へんつぎ)」と表記され、「雅遊中の雅遊」、「平安朝時代の遊戯中頗る智的なもの」などと説明されています。『公任集』、『枕草子』の記述をみると、それは宮仕えの女房たちが日常的におこなったゲームの一つだと分かります。また、『源氏物語(葵・橋姫)』、『栄花物語(月の宴・もとのしづく)』、『夜の寝覚』では、よく「らうらうじ・をかし(巧みで気が利く)」などの評価とともに、人物の聡明さを表現するエピソードとして語られます。中世以降では『兵部卿物語』、『増鏡(内野の雪)』にみられるだけで、ほかの記録は今のところ見つかっていません。これらによると、「へんつき」、「へんつがせ」に興じるのが女房や幼い姫君・若君だということはわかりますが、このゲームに用いる道具やルールなどについての描写がありませんので、詳しいことは依然、謎のままです。

 『倭訓栞』、『嬉遊笑覧』、『雅言集覧』、『言海』および上記文献の注釈を参考にして整理すると、次のような説があげられます。

 ①漢字の偏または旁を隠して文字を当てさせる遊び

 ②ある偏または旁のつく漢字をいくつ知っているかを競う遊び

 ③ある旁に偏を次々につけて訓(よ)みを答えさせる遊び

 ④詩句の中の漢字の偏を隠して、旁だけを見せ、何偏と当てさせる遊び

 いずれにしても、漢字の構造を利用した知育ゲームと言えるでしょう。ただ、①~③は識字能力があれば遊べるのですが、④はそれのみならず、漢詩文の素養が問われます。習書木簡の例と敦煌文献の文字遊びの詩をみると、案外、「へんつき」も初心者向け、上級者向けと数段階の難易度に分けられていたのかもしれません。いつか、この幻のゲームの全貌が見える日が来るのを楽しみにしています。

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写真1】平城宮4-4688(裏)
釈文:青青青秦秦秦謹謹申 謹論語諫[⿰言牛]計課䚵謂諟誰
(奈文研1967『平城宮発掘調査出土木簡概報4』より)

参考文献

 中国国家図書館『国家図書館蔵敦煌遺書』27、北京図書館出版社、2006年。
 酒井欣『日本遊戯史』、建設社、1934年。
 犬養廉・後藤祥子・平野由紀子校注『平安私家集』、岩波書店、1994年。
 『新編 日本古典文学全集』18・21・24・28・31・32、小学館、1995-1998年。
 河北騰『増鏡全注釈』笠間書院、2015年。
 『続々群書類従』第十五歌文部2「兵部卿物語」、国書刊行会、1907年。
 谷川士清『倭訓栞』前編二十七、国文学研究資料館所蔵、1805年。
 喜多村筠庭『嬉遊笑覧』(二)岩波書店、2004年。
 石川雅望『雅言集覧』中島惟一、1887年。
 大槻文彦『言海』六合館、1928年。

(企画調整部アソシエイトフェロー 吴 修喆)

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