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古代日本のトラ・虎・寅

2022年1月

 2022年は寅年です。「トラ」と聞いてみなさんは何をイメージしますか?プロ野球の某人気球団の名前とマスコット、魔法瓶を作る会社の社名、生まれも育ちも葛飾柴又の男が活躍する映画の主人公の名前、などなど、日本に野生の虎は生息していないにもかかわらず、私たちの周りには様々な「トラ」があふれています。では、古代日本の人々にとって、「トラ」はどのような存在だったのでしょうか?

 まずは干支。古代日本の文字史料には、年や日付を表すために干支が用いられました。福岡県福岡市にある元岡古墳群から出土した金錯銘太刀に、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」とあります。「庚寅」の「歳」の「正月六日」が「庚寅」となるのは西暦570年にあたります。時代は下って奈良時代、平城宮内や平城京内で出土した削屑木簡に、干支を習書したとみられるものが複数見つかっています【写真1】。干支の「寅」は、官人の職務の中で作成される文書や木簡に使用することが多かったことがうかがえます。

 生まれた年の干支を名前とすることは、古代から近代までしばしば行われました。例えば、寅年、寅月、寅の刻に生まれたとされる、鎌倉幕府第4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)の幼名は、「三寅(みとら)」でした。古代社会にも「トラ」の名を持つ人はそれなりにいたようです。平安時代前半の天皇の侍医であった大神虎主(おおみわのとらぬし)は、幼い頃から才能にあふれ、医学を学んでその奥義を究めた名医として知られています。一方、虎主はふざけることが好きな性格で、人と話しているとよく冗談を言っていたと記録されています。陽気な人柄はまさに、平安京の「トラさん」といったところでしょうか。

 では、古代日本の人々は本物のトラを見たことがあったのでしょうか?『日本書紀』欽明(きんめい)天皇6年11月条(6世紀中頃)に、朝鮮半島の百済へ派遣されていた膳臣巴提便(かしはでのおみはすひ)が帰国の報告をした中で、一緒に百済へ行った子どもが虎に食われたので、その虎を探して殺し、皮を剥いで帰還したと述べています。『日本書紀』の記述の通りであれば、膳臣巴提便は、記録に残る中では日本人として初めて虎と出会い、戦って殺した人物ということになります。

 膳臣巴提便が持ち帰ったとされる虎皮ですが、貴族たちの間では馬具や太刀の装飾として用いられていたことが知られています。また、儀式の際に使用する座具である胡床(こしょう)に虎皮を敷くことが定められており、内蔵寮(くらりょう)に必要な分は保管されていました。古代の日本には、野生の虎は生息していなかったことから、虎皮を中国や朝鮮半島から輸入していたと考えられます。しかし、虎皮を使用できたのはごく限られた貴族だけであったと推測されます。

 古代日本の人々にとって、皮だけが本物の虎を目にする機会だったわけですが、実は即位式や元日朝賀(がんじつちょうが)の際に、大極殿の前に設けられる旗の1つに虎が描かれていたことがわかっています。そう、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画でおなじみの「白虎」です【写真2】。もちろん「白虎」は空想上の生き物ですが、壁画や旗の「トラ」を描いた人は何を参考にしていたのでしょうか?また、大極殿の前にはためく「白虎」を見た官人たちは、何を思ったのでしょうか?寅年の今年は、みなさんもトラについて思いをはせてみるのはいかがでしょう。

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【写真1】「戌亥子丑寅卯辰」(平城宮二条条間大路南側溝出土木簡(第44次調査)上段右)

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【写真2】 キトラ古墳壁画(白虎)

(都城発掘調査部研究員 垣中 健志)

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