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キトラ古墳 十二支の服装

2021年8月

 明日香村に所在するキトラ古墳の壁画には、四神や天文図の他に、十二支の像が描かれているのをご存知ですか。この十二支は頭が動物で、身体は人間という姿をしており、右手に武器を持つのが特徴です【図1】。被葬者を邪悪なものから守護する目的で描かれたと考えられており、石室の東西南北の壁面に3体ずつ、各方角に合わせて描かれていました。現在は子・丑・寅・午・戌・亥の6体が確認されています。

 残りの良い北壁「丑」【図1−左】、東壁「寅」【図1−中】、南壁「午」【図1−右】を比較すると、衣服の色や持ち物はもちろんのこと、袖を捲っていたり、おろしていたりとバリエーションに富んだ姿をしているのがお分かりいただけるかと思います。

 しかし、十二支を解説する上で、一つ頭を悩ましている事があります。それは十二支の着ているものについてです。長い袖に、足元まで伸びる前合わせの着物を腰帯で体の前で結ぶという装いは、現代の人からすれば、着物と似た姿でさほど違和感はないかもしれません。

 これに対して、近い時期に描かれたと考えられる高松塚古墳壁画の男子群像、女子群像の服装は、男女ともに上下に分かれたツーピースで、上着の下に、それぞれズボンやスカートを身につけています【図2】。

 一体どちらが、古代の日本の人々の服装に近いのでしょうか。

 古墳時代につくられた埴輪などをみてみると、男性はズボン、女性はスカートのようなものを上着とともに身につけており、高松塚古墳壁画の人物像と近い姿で表現されています。奈良時代の正倉院宝物の中にも服飾品が何点か納められていますが、高松塚古墳壁画のような、上着とズボン、スカートなどの衣服がほとんどです。

 つまり、古墳時代から奈良時代にかけての人々は、上下に分かれたツーピースのようなものを着ていたと考えて良いでしょう。これに対し、中国・朝鮮半島ではツーピースもありますが、キトラ古墳の十二支が着用しているワンピースのような服装もみられます。日本の飛鳥時代の一般的な服装とは少し違って、大陸的なのがキトラ古墳の十二支の服装の特徴といえます。

 キトラ古墳の十二支の服装に似ているものを調べてみると、中国や朝鮮半島でつくられた石造物や絵画などにみられます。振袖のような長い袖は「大袖」と呼ばれ、身分の高い人や仏像が纏う衣装の特徴です。

 また、襟や裾、袖口などにあしらわれた赤い縁取りなど、その箇所だけ異なる配色を施すことは、古代の中国や朝鮮半島でよくみられます。これは服の開いている部分から邪悪なものが入らないよう、身を守るための魔除けの一種とされており、日本には定着しなかった風習です。

 このようにキトラ古墳の十二支の服装を詳しく調べるほど、中国大陸や朝鮮半島との直接的な関係があると言えそうです。しかしながら、なぜ十二支を当時の人々とは異なる服装で描いたのかははっきりしません。また、服装だけでなく、「丑」が持っているS字形の不思議な道具は、中国の後漢(25−220)頃に使用されていた鉤鑲(こうじょう)という盾の一種で、隋・唐の時代にはすでに使われていないものが描かれています。十二支の図像には様々な要素が複雑に組み合わさっているようです。

 なぜ、キトラ古墳壁画の十二支には服装や武器に飛鳥時代のものと異なる要素が残されているのか、まだ十分には解明されていません。20cmにも満たない小さな図像ですが、個々の要素に着目すると、新たな発見があるかもしれないと考えています。

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【図1】キトラ古墳壁画の十二支

北壁「丑」【左】、東壁「寅」【中央】、南壁「午」(泥に転写されて残っているため鏡像になっている)【右】

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【図2】高松塚古墳壁画「西壁女子群像」

 

 おもな参考文献

 舘野和己・岩崎雅美編2009『古代服飾の諸相』東方出版

 東京国立博物館・九州国立博物館 ほか編2019『三国志 公式展図録』美術出版社

(飛鳥資料館学芸室アソシエイトフェロー 黒澤 ひかり)

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