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キトラ天文図の観測年代に関する「謎」

2021年7月

 飛鳥にある壁画古墳・キトラ古墳の石室の天井には、中国式の円形星図が描かれています。この図をここでは「キトラ天文図」と呼ぶことにしましょう。このキトラ天文図には、360個ほどの星を朱線で結んだ74座の星座が確認できます。これらの星座は、現代人には馴染みの薄い中国の星座ですが、図に描かれた星座の多くが現在のどの星座にあたるのか同定することができます。この点が、キトラ天文図の特徴のひとつです。

 この特徴を利用して、キトラ天文図の星の位置から、描かれた星がいつ頃観測されたものなのかを推定しようとする分析が、幾人かの研究者によっておこなわれています。分析の方法は、歳差による星の位置の変化を利用したもので、図中のいくつかの星を選び、その位置からそれらの星が観測された年代を求めるものです。その分析結果をみると、紀元前80年±40年や300年±90年といった値が示されており、その年代はさまざまです。同じ図を対象としているのに、なぜこれほどかけ離れた年代が導き出されるのでしょうか?今回は、この観測年代の「謎」について考えてみたいと思います。

 答えの手がかりを探すために、キトラ天文図がどのような特徴をもっているのか、まとめてみましょう。

 まず、天文図に描かれた約74という星座の数は、3世紀に中国の陳卓という天文学者がまとめた283座という中国星座の総数に比べると、かなり少ないです。また、キトラ天文図には誤りも多く、図中の星座の位置が入れ替わっていたり、星座の大きさや傾きが実際の夜空の星とは異なっていたり、黄道の円の位置が間違っていたりもします。さらに、正しく描かれた円形星図ならば、内規・赤道・外規の各円の半径の比率は、図の使用地の緯度をφ度とした場合、内規:赤道:外規=φ:90:(180-φ)となるはずですが、キトラ天文図では正しい比率とはなっていません【図1】。このような図であるため、キトラ天文図を用いて本格的な天体観測をすることは、とてもできそうにありません。また、天文図をより詳しく観察すると、星座には下描き線があることがわかります。これらの下描き線はラフに引かれており、その上、金箔の位置や清書の朱線が下描きと少しずれていたり、下描きを描き直したりもしています【図2】。

 これらの特徴を踏まえると、キトラ天文図は石室天井という狭いキャンバスに描くために、実用の星図をもとに再構成された図だったと推測できます。実用の星図ではないので、描かれた星座の数が少なくても、星座の形・大きさ・位置が実際の星と多少異なっていても、赤道などの大円の比率や黄道の位置が正しくなくても問題はなかったのです。さらに、下描きの状況をみる限り、キトラ天文図の作者が、丁寧に下描きをし、壁画の原図を狂いなく忠実に写し取ろうとした意識も読み取れません。

 以上の情報を勘案すると、複数の研究者が推定した観測年代が大きく異なっているという事実は、そもそも天文図に描かれている星の位置が、歳差理論をもとにした分析に耐えうるほどの精度はもっていないことを示していると考えられます。これが、キトラ天文図の詳細な観察から導き出した、観測年代の「謎」についての私なりの答えです。

 ただし、「謎」解きの答えをこう結論づけたとしても、これまでのキトラ天文図の評価が変わるわけではありません。図中の星座の多くが現在の星と同定可能で、内規や赤道などの天文学的に意味のある4つの円を備えた円形星図で、キトラ天文図より古い例は現在のところ知られていません。天文学の歴史や、古代の星図の具体的な姿を知る上で、キトラ天文図が世界的にみても貴重な壁画であることは間違いありません。

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図1 キトラ天文図復元トレース図

         (緑で囲んだ翼宿と張宿は位置が入れ替わっており、本来とは逆になっている。
         また、黄道は位置が間違っており、青い破線の円がほぼ正しい黄道の位置。
         内規・赤道・外規の半径は、それぞれ8.4㎝・20.1㎝・30.3㎝である。)

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図2 積卒 (大小2種の下描き線が残り、描き直しているのがわかる。)

(都城発掘調査部主任研究員 若杉 智宏)

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