なぶんけんブログ|奈良文化財研究所に関する様々な情報を発信します。

鮭と鱒の話

2021年6月

 サケ(鮭)は日本人が好んで食べる魚のひとつですが、その利用はいつ、どのようにはじまるのかはあまり知られていません。マス(鱒)という魚もいます。生涯の一時期、海に降りるものをサケ、一生を通じて淡水生活を送るものをマスと呼ぶようですが、海に降りたサクラマスなどのようにその区別は日本語では曖昧です。いずれも生物学的にはサケ科サケ属に含まれ、サケ属(Oncorhynchus)には、サクラマス、シロザケ、カラフトマス、ベニザケ、マスノスケ、ギンザケなどが含まれます。

 サケ・マスは水温が低い海を好み、「サケは銚子限り」という洒落のきいた言葉もあるように、その分布は太平洋側では利根川(河口に銚子が位置する)が南限とされます。また、日本海側では昭和には山口県でシロザケの遡上がみられ、北九州の筑豊炭田を流れる遠賀川(おんががわ)(弥生時代前期の「遠賀川式」として学史的に有名)流域にも鮭神社があって、江戸時代には上ってきたサケを奉納したといいます。

 なお、現在も多く輸入される西洋のサーモンは脂がのっていて、寿司ネタにもよく使われます。これは大西洋の北側に分布するタイセイヨウサケ属(Salmo)で、太平洋に分布するサケ属とは別です。以下ではここにあげたものを総称してサケ・マスと呼んでおきます。

 サケ・マス漁のはじまりは旧石器時代にさかのぼります。フランス南西部からスペイン北部カンタブリア地方では、後期旧石器時代(約4万年前以降)の後葉にあたるソリュトレアンやマグダレニアンといった文化でサケ・マスが重要だったようです。食料としての栄養価や量にもまして、捕獲の時期や場所を予想しやすいためとの説があります。

 一方、日本最古のサケ・マス漁の証拠は、縄文時代草創期初めにあたる約15,500年前の東京都前田耕地遺跡から得られています。哺乳動物の骨のほかに数千点のサケ科魚類の歯が出土しました(写真1)。当時ここには小屋が立てられ、数十匹以上が捕獲され、炉の周囲で処理されたようです。これだけの量は一気に消費できないので、保存処理も行った可能性があります。まとまった量を捕獲できる場所と時期が予想しやすいことが、やはり生業上の大きな利点だったのでしょう。

 かつて東京大学の山内清男(やまのうちすがお)は、東日本の縄文文化が栄えたのは、サケが豊富にとれたために人口が増え、豊かな狩猟採集文化が花開いたとするサケ・マス論を提唱しました。遺跡からサケ科魚類の遺存体がほとんど出土しなかったため批判にさらされましたが、近年では証拠も増えつつあり、その生業上の重要性は認められつつあります。

 サケ・マスの重要性は後の時代もかわりません。古代では、『肥後国風土記』にマスに似た魚が献上されたことが記されています。『延喜式』ではサケを貢納した国として信濃、越後、越中の三国が挙げられます。京に近い諸国のうち若狭、丹後、但馬、因幡からも生鮭が貢納されています。サケ・マスの自然分布を考えれば、これらは律令国家の領域内でサケ・マスが多く遡上する諸国ということになるでしょう。鮭は時代を超えて食料として重宝されてきたのです。

 ただ、なぜ旧石器時代の終わりごろからサケ・マス漁が活発になったかは分かりません。そもそも、これほど身近なサケ・マスという生物の歴史や生態も、まだ分からないことだらけのようです。最近の生態学的テレメトリー調査では、鮭は海に降った後に沿岸の浅海域で成長したあと、オホーツク海やベーリング海に旅して成長しますが、ベーリング海でもプランクトンや甲殻類などのえさ資源が豊富な大陸棚で成長することがわかりつつあるとのこと。旧石器時代には、寒冷な気候で極地に水分が固定され、100m以上も海水準が低下している時期が長かったためそうした浅海域は少なかったと考えられます。しかし、1.9万年前以降に海水準は急上昇に転じ、大陸棚が海没して豊かな浅海が形成されました。ちょうどこのころ、西欧でも日本でもサケ・マスの重要性が増したようにもみえます。気候変動を背景とした広大な浅海域の形成が、サケ科魚類の繁栄に関係しているのではないかと想像したくなります。

sahorou20210601.jpg

写真1 東京都前田耕地遺跡から出土したサケ科魚類をはじめとする動物骨
(上:哺乳類の骨片、中:サケ科、下:クマ属・シカ科)
(奈良文化財研究所撮影、東京都教育委員会蔵)

(都城発掘調査部主任研究員 森先 一貴)

月別 アーカイブ