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アンコール・ワットを訪問した日本人

2021年4月

 文化財を扱っていると、調査が一段落した後もずっと、頭の片隅に残り続けることがあります。私の場合、そういう記憶はたいてい、「あれが最良の処置だったのだろうか」と、心に引っかかっている場合です。

 図1は、カンボジアのアンコール・ワットの柱に書いてある銘文です。皆様はこれをどう読みますか?2008年の報告書(参考文献1)で私が記した釈文と、この文章を書いている2021年3月現在、私が改めて考えてみた釈文を、並べて掲げておきます(図2)。

 アンコール・ワットの十字回廊には、さまざまな言語の言葉が書き付けられています。その中には、江戸時代初頭、まだ鎖国になる前に日本人が来て記した墨書もあります。現在は風化して確認不能になってしまったものも含めて、戦前から今までに14点の日本人墨書が指摘されています。写真の墨書は薄れていて、日本人墨書だろうとは言われていましたが、あまり読めていなかったものです。それを奈文研が赤外線写真で撮影したのがこの写真です。

 アンコールの日本人墨書によくあるのは、「日本のどこそこの住人がこの地を一見した」という内容です。この墨書も、2行目の「此所」ははっきりしていて、江戸時代の日本人の筆跡としてふさわしい感じです。一方、1行目は過去の報告書で私はこう書いています。「1字目を「備」と読めば備後の鞆の浦になるが、苦しいだろう。」

 1行目を「備後鞆」と読めば、鞆の浦付近の日本人が、江戸時代初期にアンコール・ワットを訪問したことになります。この墨書からそこまで言えるのか。その時は確信が持てないままに、思い悩んで上記のように報告しました。しかしそれ以後、私はずっとこの墨書が気になっています。

 図3の部分拡大写真をご覧ください。まず、「鞆」と考えている字は革へんに「酉」のように書いてあります。なので革へんに「丙」の鞆ではありません。しかしこのままでは読めませんから、異体字と考えて、やはり「鞆」のつもりなのかな、とは思います。その2字上は、肉眼では「仁」のように見えました。しかし赤外線写真をよく見ると、字の中ほどが薄くなっているだけで、もっと複雑な字だと思います。「備」は図4のような字体にもなりますから、やはり「備」で良いかな、というのが、私の現在の考えです。

 赤外線写真では、この字の上方にもうっすらと文字のようなものが見えます。「日本」と書いてあるようにも思います。「日ヵ」くらいは読んでも良いかな、と思いました。またこの行の一番下は、他の墨書では「住人」と来ることが多く、本墨書にも「人」らしきものが見えるようにも思いますが、これは薄くて確信が持てないので、釈文としては□にしておこうと思います。また2行目の下端も、さらに文字が続いているように見えますが、これも、よく分からないので空白にしてあります。

 以上の新しい読みに従えば、江戸時代初頭に、現在の広島県福山市の鞆の浦付近の人が、アンコール・ワットを訪問した、ということになります。鞆の浦は瀬戸内海の良港として栄えていましたから、その可能性はあるのでは、と、今の私は思っています。

 人間、思い入れが入ると、自分の見たいように見てしまいがちになります。だから以前は止めておいたのですが、やはり気になっています。思い込みによる読み過ぎなのか、妥当な読みなのか。皆様も考えて頂けると幸いです。

参考文献:

(1)吉川 聡「日本人墨書の研究」(『カンボジアにおける中世遺跡と日本人町の研究』文部科学省科学研究費補助金 特別研究促進費 課題番号19900125、2008年)

(2)東京手紙の会編『くずし字辞典』思文閣出版、2000年

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【図1】アンコール・ワット日本人墨書銘赤外線写真(c号)

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【図2】釈文

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【図3】1行目部分拡大写真

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【図4】「備」くずし字 参考文献(2)より

(文化遺産部歴史研究室長 吉川 聡)

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