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ナツメのはなし

2021年1月

 みなさんはナツメ(棗)を食べたことがありますか。赤い楕円形の実で、干したものが薬膳料理などで使われますが、普通のスーパーではまず見かけないと思います。

 ところが、岐阜県高山市を訪れた際に、飛騨ではナツメを食べる風習があると聞きました。庭先によく植えられていて、秋になると果実を生で食したり、甘露煮にするのが恒例なのだそうです。日本では珍しい食文化といえるでしょう。

 世界的には、ナツメを食する地域は地中海沿岸から東アジアまで広がっているとされます。中国や韓国では、漢方薬だけでなく、ひろく食用にされる果実の一つです【写真1・2】。干したナツメの生薬を大棗(たいそう)といいます。

 ナツメの原産地は中国といわれ、三千年以上の栽培の歴史があります。古代中国ではナツメの実は神仙と結びついていました。後漢から三国時代に作られた方格規矩四神鏡に「上有仙人 不知老 飲玉泉 飢食棗」といった銘文があり、日本の古墳から出土する三角縁神獣鏡にも同じような銘文がみられます。

 現在の中国では華北がナツメの産地であるとともに、新彊のナツメは高級品です。ナツメは栄養価が高く、中国では「1日三粒ナツメを食べれば百歳まで老いない」といわれています。

 お隣の韓国では慶尚北道の慶山市や忠清北道の報恩郡が名産地で、どちらも三国時代の新羅の領域に含まれます。韓国では元旦や秋夕などの儀礼の供物の膳(茶礼床)にナツメを必ず入れるそうです。

 ナツメは日本に自生しない外来種とされていますが、日本への渡来は古く、『万葉集』にもうたわれました(3830・3834番)。長屋王邸の発掘調査では「棗」と書かれた木簡がみつかっています。また、発掘調査でナツメのタネが出土することがあります。飛鳥時代の石神遺跡の溝(SD4089)から103点、奈良時代の平城宮の溝(SD2700)から2,047点、平城京の井戸(SE950)から238点などの出土例があり、モモやクリ、クルミ、カキなどとともに利用されていたことが知られます。モモのタネが多量に出土すると祭祀との関係が推測されることがありますが、ナツメも儀礼の供物にされた場合があるのではないでしょうか。

 また、平安時代の『延喜式』によれば、宮内省・大膳職・典薬寮などで干したナツメが薬や供物として使われ、信濃・丹後・美作・備後・因幡・阿波といった諸国が産地でした。古代ではナツメが広く栽培されていたことがわかります。

 ナツメは中近世にも供物や食用にされており、「棗」に関係する地名や人名は今でも散見されます。しかし、現在まで伝統的にナツメを栽培し、常食している地域は、岐阜県の飛騨だけだといいます。

 それでは、なぜ飛騨にはナツメの食文化があるのでしょうか。それについては次のような見方があります。朱鳥元年(686年)、大津皇子の謀反にかかわった新羅僧の行心が「飛騨国伽藍」に流されました。飛騨ではちょうどこの時期、7世紀後半から古代寺院の造営が盛んになり、新羅系とされる文様の軒丸瓦も出土しています。飛騨の古代文化の形成には渡来系の人々が一定の影響を与えたと考えられます。そうした中でナツメも持ち込まれ、定着し、受け継がれているのではないか、というのです。

 飛騨におけるナツメの食文化の歴史的経過については確証がありませんが、古代からの伝統かもしれないと考えるとロマンがあります。

 

 おもな参考文献

 衣田千百子『朝鮮の祭儀と食文化―日本とのかかわりを探る―』勉誠出版、2007。

 小池伸彦・芝康次郎・庄田慎矢「古代の植物性食生活に関する考古学的研究」『浦上財団研究報告所』vol.23、2016。

 八賀晋「棗を食す国」『日本の食文化に歴史を読む 東海の食の特色を探る』中日出版社、2008。

 湯浅浩史「ナツメ」『日本大百科全書』17、小学館、1987。

 

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【写真1】中国西安の市場で売られていた大小のナツメ(中央)

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【写真2】飛騨の干しナツメ(右下3点、長さ約2.3cm)と中国の干しナツメ。大きいナツメは日本では見かけない。

(飛鳥資料館学芸室長 石橋 茂登)

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