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平坦で楽な道

2020年9月

 平城京の西北隅には、南北約270m東西約1.6㎞の張り出し部分があり、北辺坊と呼ばれています。北辺坊は、奈良時代後半の西大寺造営にともない、広大な寺地を確保するために、京域を北側に拡大して設定されたとみられています。その故地は、近鉄大和西大寺駅の北方とその北西にあたり、南北は西大寺野神町の伏見中学校のすぐ北の道(平城京の一条北大路にあたる)から西大寺赤田町の西大寺北小学校付近まで。東は山陵町の伝称徳陵古墳が含まれます。

 北辺坊の西端に住む私は、大和西大寺駅や研究所の庁舎に自転車で通っています。10分ほどの行程です。往路はずっと下りで快適なのですが、帰路はなだらかな登り道が続き、若いころはともかく近年はペダルをこぐ足も重くなってきました。ここ数年、なんとか楽はできないものかと、様々な道を試してみました。結果、あるルートがほかと比べて「平坦で楽な道」であることに気づきました。はなはだ地元ネタで恐縮ですが、それは、大和西大寺駅から西に進み、西大寺北町の十五所神社すぐ西の小径を抜け、県道を渡り、さらに道なりに西大寺北小学校のすぐ南の道を進むルートです。

 よくよく考えてみると、この道は、鎌倉時代にさかのぼる歴史のある道でした。鎌倉時代の古絵図には、西大寺中興の祖、叡尊が開発したと伝える「今池」が描かれています。今池は現在のあやめ池の上池にあたり、この池の水は、下流の池に溜められたのちその一部が西大寺周辺の寺領をうるおしていました。しかし、あやめ池は西大寺からみれば一つ北の谷筋にあり、寺の周辺に水を流すためには、東西に延びる丘陵を南に横断する水路を掘らねばなりません。絵図には、東西方向の溝のみが描かれますが、実際の溝は傾斜の少ない丘陵縁辺に沿って掘られ、さらに丘陵の末端部近くで南に分岐しています。鎌倉時代の人びとは、経験的にもっとも労力のかからないルートを選び、そこに溝を掘ったのでしょう。そして、この水路に沿う小径は、「平坦で楽な道」とみごとに一致しています。

 西大寺の周辺は住宅建設が進み、古代中世の景観を思い起こすことも難しくなりました。水田が減少し、ため池が消え、古くからの用水も機能を失っていきます。けれども、「平坦で楽な道」が、鎌倉時代の水路に沿った道であったように、地形そのものは、なお過去の姿をとどめていることがあります。地域を歩き、五感を駆使して史料とむきあうとき、土地にきざまれたその地域の歴史を、感じることができるのではないでしょうか。

 

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図1 北辺坊とその周辺

 

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図2 鎌倉時代の古絵図(東京大学日本史学研究室所蔵、部分。
出典:奈良国立博物館 平成14年発行『西大寺古絵図は語る 古代・中世の奈良』より)

(都城発掘調査部上席研究員 山本 崇)

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