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古代都市平城京の疫病対策

2020年5月

 律令制度に基づく国家づくりが軌道にのり、平城京が国の中心として繁栄しつつあった天平7年(735)。天然痘とみられる疫病が、大宰府管内で流行し始めました。翌年には一旦、収束したともみられていますが、天平9年(737)4月に再度、大宰府管内で流行がはじまると、7月には平城京をはじめ畿内以東まで、日本列島は大流行の災禍にのみこまれました。

 「続日本紀」は、たくさんの死者が出たことを伝えています。多くの百姓が病に倒れたことで、農産物の生産も低下しました。さらには、時の権力者であった藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の命を次々と奪いました。当時の政局が大混乱をきたしたことは言うまでもありません。

 奈良時代といえば、平城京の繁栄と唐・新羅・渤海など諸外国との活発な交流の時代です。この都市の人口増加と活発な海外交流は、疫病が大流行する背景として、現代社会に通じるものがあります。この迫り来る疫病に、平城京の人々はどのように立ち向かったのでしょうか。

 現在、複合型商業施設である「ミ・ナーラ」がある場所。ここは平城京左京二条二坊、三条二坊にあたりますが、二条大路の路肩部分に、長大な濠状のゴミ捨て穴が見つかりました。出土した木簡の年紀からみて、まさに天然痘大流行の前後の遺物をたくさん含むことがわかりました。ここからは、天然痘の終息を願う呪符木簡も出土しました。

 一つには、「南山のふもとに、流れざる川あり。その中に一匹の大蛇あり。九つの頭を持ち、尾は一つ。唐鬼以外は食べない。朝に三千、暮れに八百。急急如律令。」といった内容が記されていました(写真1)。この「唐鬼」とは何を指すのでしょうか。中国では、天然痘のような疫病は「瘧鬼(ぎゃくき)」が引き起こすと信じられていました。この「瘧鬼」を書き間違えたのか、天然痘が唐など外国から伝わったことを意識したのか、ここでは「唐鬼」と記したと考えられています。同じような呪符が唐代の医学書『千金翼方』に記載されており、当時の人々にとっては、「まじない」というよりは立派な「医療」だったのでしょう。

 ちなみに、最後の「急急如律令」は、中国で定番の呪符の結びで、律令のようにすぐにやりなさいという意味です。古代の王権が発する律令は、現在社会の法律とはスピード感が違ったようです。

 この呪符木簡が捨てられた濠状土坑からは、まだ使えそうな完全な形に近い食器がたくさん捨てられていました。その背景には、疫病の蔓延を防ぐために食器は使い回さないといった予防対策があったのかもしれません。

 天然痘の大流行は、聖武天皇に遷都を決意させ、大仏建立へと導いたとも言われています。これ以降、平城京の庶民の間では、人面墨書土器による新たな祭祀が流行し、国家主導による燃灯供養がさかんにおこなわれました。感染の予防、新たな治療法の模索、神仏への祈り、死者への哀悼・・・平城京の発掘出土品は、都市の疫病蔓延に立ち向かった人々の生の声を届けてくれるようです。

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奈文研1995『平城宮発掘調査出土木簡概報31』より
平城京二条大路濠状土坑から出土した木簡

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二条大路濠状土坑から出土した食器

(都城発掘調査部考古第二研究室長 神野 恵)

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