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神社か?寺院か?

2020年5月

 皆さんもご存じのように、関西には有名な名所・旧跡がたくさんあります。なかでも私は、京都府八幡市にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)(図1)に深い興味を抱いています。その名の通り、現在、石清水八幡宮は神社です。しかし、前近代においては、神社と寺院の合体した宗教施設でした。私は、当時の石清水八幡宮は、どんな建物が建っていて、どんな景観であったのか、追いかけてみたくなったのです。

 名称も前近代には、「石清水八幡宮護国寺」や、「八幡宮寺」などと呼ばれていました。つまり、石清水八幡宮は、「宮」すなわち神社であり、なおかつ「寺」すなわち寺院であったのです。

 前近代においては、神への信仰と仏への信仰が接近・融合した信仰体系である、神仏習合の時代が続いていました。そんな時代において、石清水八幡宮は、とくに神社と寺院の関係が深かったことで知られています。その組織は寺院に準じるもので、検校(けんぎょう)や別当(べっとう)といった役職が鎌倉時代の文献で確認でき、 運営の中核を担ったのは僧侶たちだったことがわかります。

 境内の建物は、鎌倉時代には、本殿、若宮、若宮殿など神様を祀る神社施設のほか、護国寺や極楽寺といった寺院のお堂、大塔や小塔など多宝塔も建っていました。神社の建築である本殿の中には、神体のほかに仏像が安置されていましたし、寺院の建築である護国寺や極楽寺の内部には、仏像のほかに八幡神像が安置されていたことが、鎌倉時代前後の絵画資料などで知られています 。境内には神社と寺院の建築が建ち並び、建物の内部では神様と仏様が並んで祀られていたのです。その様子はまさに「宮寺」という名にふさわしいと思いませんか?

 「宮寺」だった頃の石清水八幡宮はさぞかし壮麗だったことでしょう。しかし、現在、往時の石清水八幡宮を見ることはできません。明治時代の神仏分離をうけて、境内の寺院建築や塔はすべて取り払われてしまったのです。しかし、幸運にも1つだけ寺院の建物が残されました。それは、石清水八幡宮から南へ約1.7㎞離れた位置に移築された八角堂(図2)で、正法寺という寺院の所有となって解体を免れたのです。この建物は17世紀初頭に豊臣秀頼によって建てられたとされ、昨年、5年がかりの修理工事が終わったところです。西車塚古墳という前方後円墳の上で、ひっそりとたたずむその姿は、時代の生き証人が余生を過ごしているかのようです。

 

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図1:現在の石清水八幡宮

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図2:現在の八角堂

(都城発掘調査部研究員 山崎 有生)

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