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歴史を遺す写真の歴史

2020年4月

 文化財を写真で記録し遺す。私の所属する写真室の現在の業務です。

 写真を使って文化財を遺すことは実は古くからおこなわれています。近代写真技術が発明されたのは1830年代のダゲレオタイプ(いわゆる「銀板写真」)と言われています。写真機材が日本に渡来したのは1840年代の終わり頃、日本人が写真技術を手に入れるまでその後10年ほどかかりますが、その頃には有名な坂本龍馬の肖像写真なども日本人によって撮影されています。

 文化財を写真の形で遺すことを目的としておこなわれた事業は、明治4年(1871年)に撮影され現在も写真帖の形で見ることが出来る「旧江戸城写真帖」となります。写真師の横山松三郎が当時の政府(太政官)から依頼され、明治維新によって廃れてしまう江戸城を撮影しました。この写真帖の添付文書には「破壊ニ不相至内、写真ニテ其ノ形況ヲ留置スル事ハ後世ニ至リ亦博覧ノ一種」と書かれており、明確に写真で記録を後世に残すことを意識しています。 横山松三郎はこの翌年にも「壬申検査」という伊勢・名古屋・京都・奈良の古社寺や正倉院宝物などの文化財調査に同行し、それぞれの文化財を撮影しています。

 このように明治維新からはじまる近現代の日本において、文化財の記録には写真技術がもちいられ、その口火を切ったのが横山松三郎となります。その後の近畿宝物調査(1888年)では小川一真、大正5年(1916年)の法隆寺金堂壁画保存方法調査での田中半七など、特に国家的事業としての文化財調査では必ず写真師が存在し、常に最新の技術で写真記録を遺しています。また私たちが仕事をしている国立文化財機構の各施設には常勤の写真技師がおり、横山松三郎にはじまる文化財の写真記録を引き続き担当しています。

 ところでこの写真1「江戸城写真帖・蛤岩岐」(東京国立博物館古写真データベースより)の写真を見ると石垣や壕をバックにした人物が数名写り込んでいます。いかにも明治維新当時の人物の風貌で最も右の人物は刀も差しています。文化財の記録写真というと建物や仏像や遺物などが整然と、余計なものを排除して撮影するのが望ましいと思われがちですが、実はこの人物が写っていることで時代背景や建物のスケールがよくわかる「情報」として記録されます。これは現代の記録写真にも通じることで、私たちも遺跡などを撮影するときに人物や自動車(時代がよくわかる!)を写し込むことがあります。写真2はいかにも古そうな自動車とともに右端には発掘作業員さん達が写り込んでいます。これも自動車の少ないタイミングや作業員さんを排除することも出来ますがあえて写し込んでいます。

 まさに文化財を写真の形で遺すことを始めた黎明期から現代まで続けられてきている歴史的なテクニックと言えます。

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写真1 「江戸城写真帖・蛤岩岐」

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写真2 平城京の発掘調査1972年

(企画調整部専門職員 中村 一郎)

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