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掘立柱建物に住む

2019年8月

 古代の集落は、大きく2種類の建物で構成されていました。一つは地下式の「竪穴建物」で、もう一つが地上式の「掘立柱建物」です。縄文時代以来、住居はほとんどが竪穴建物で、掘立柱建物は倉庫や神殿、居館といった施設に限られていました(図1)。しかし、古墳時代には掘立柱建物を一般の住居として使用する集落が一部に存在したことがわかっています。

 例えば、大阪府大園遺跡では5世紀中頃から6世紀までを中心とする100棟以上の掘立柱建物が、京都府森垣外遺跡では5世紀後半の掘立柱建物が119棟も見つかっています。さらに、これらの集落には「大壁建物」もありました。「大壁建物」とは、方形に掘った溝の中に互いに接するように立てた細い柱を、土で塗りこめて壁にした建物で、渡来系集団の住居と考えられています。これらの集落では、朝鮮半島の土器に類似する「韓式系土器」も多く出土しており、渡来系集団との関係がうかがえます。他に、滋賀県大津市周辺などの古墳時代に渡来系集団が多く住んだ地域でも、多数の大壁建物と掘立柱建物の集落がみつかっています(図2)。

 掘立柱建物が住居として全国の集落に普及するのは平安時代の終わり頃ですが、畿内地域の集落は7世紀のうちに掘立柱建物へと一気に移行していました(図3)。その背景には、6世紀後半以降の積極的な大陸文化の摂取と、これに伴う中央からの働きかけがあったと私は考えています。竪穴建物に住んでいた古墳時代の人びとにとって、大壁建物や掘立柱建物などの地上式住居に基づく生活は、渡来系集団と関わりの深い文化として認識されていたでしょう。大壁建物のなかには掘立柱建物住居と平面形がよく似たものもあり、技術的な関係性もうかがえます。掘立柱建物の住居への導入は、外来の生活様式の導入であったとも考えられるのです。

 大和や河内など、都の周辺で掘立柱建物の導入が特に顕著であることも注目されます。諸外国からの使節も多かった当時、華やかな都を一歩出た途端に人々が相変わらず古い竪穴建物に住んでいたのでは、格好がつきません。集落にも都と同等の生活様式を導入することで、視覚的な文明化を図っていたのかもしれません。

 ともあれ、掘立柱建物の住居への導入によって、集落景観は一新されることとなりました。「掘っ建て小屋」などというと、つい粗末な建物をイメージしてしまいますが、飛鳥時代には最先端のライフスタイルだったのです。ちなみに、私の実家は平城京から山一つ隔てた小さなムラにあります。今は田んぼに囲まれた田舎ですが、当時は畿内地域の中心部。掘立柱建物が建つ、たいへんトレンディな地域だったかもしれませんね。

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図1 復元された竪穴建物(京丹後市立丹後古代の里資料館)

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図2  滋賀県穴太遺跡の集落復元模型(奥が大壁建物で手前が掘立柱建物。滋賀県教育委員会1997『穴太遺跡発掘調査報告書Ⅱ』より)

 

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図3 大阪府郡家今城遺跡の集落復元図(鬼頭清明1985『古代の村』 岩波書店 より)※小澤尚氏の復元に基づく

(都城発掘調査部アソシエイトフェロー 道上 祥武)

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