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鞍つくりから仏つくりへ

2019年7月

 みなさんは鞍作鳥(くらつくりのとり、止利とも書く)という人物をご存知でしょうか。

 彼は日本最初の本格的寺院である飛鳥寺の釈迦如来像(飛鳥大仏)のほか、法隆寺金堂の釈迦三尊像をつくったことで知られる、飛鳥時代を代表する仏師です。ではなぜ、彼の名前は「仏作」ではなく、「鞍作」なのでしょうか。ここに、古墳時代から飛鳥時代までの手工業の変化がうつしだされていると私は考えています。

 飛鳥時代に仏像をつくった鞍作氏は、古墳時代にはその名が示す通り、鞍をはじめとする馬具生産をおこなっていたのではないか。このような見解は、仏教美術史や文献史学の研究者によって示されてきました。考古資料によってこの説を検証したのが、京都大学の小野山節氏です。小野山氏は馬具つくりと仏つくりの接点を以下の二つの資料に見出しました。

 まず一つは、馬具の泥除け 障泥(あおり)の吊金具と仏像の光背の金具にみる意匠の共通性です。群馬県八幡(はちまん)観音塚古墳出土の金具(写真上)にみられる波状の透かしは、馬具の文様の変化では跡付けられないものであり、明らかに仏像の光背(写真下)の透かしとの関係性が伺えます。観音塚古墳は7世紀前半の築造です。一方、例示した仏像の光背はもともと法隆寺にあったもので、こちらも7世紀前半の制作とみられます。

 二つ目は、風鐸(ふうたく)と馬鐸(ばたく)の関係です。馬の胸に吊るされた馬鐸は青銅でつくられており、通常は鍍金(ときん)が施されません。その中で鍍金を施すようになった馬鐸が古墳からわずかながらも出土します。風鐸によく似た文様をもつものもあります。

 このように、古墳時代終末期(飛鳥時代)の馬具つくりと、仏つくり(造寺造仏)には密接な関係が見いだせそうです。古墳時代の馬具は、鍛金や鋳金などの金工のみではなく、紡織・刺繍、皮革加工、漆工、木工、玉作などの複数の手工業生産によってつくられていました。いわば最新技術の粋を集めたハイテク製品といっても過言ではありません。鞍作氏は渡来系氏族といわれており、馬具など時代を代表する工芸品を製作する技術をもった工人だったのでしょう。

 私も、鞍作氏をはじめとする馬具工人たちの多芸多才な面をみるべく、これまでほとんど注目されなかった馬具の革帯や革製の泥除け、木製鞍などの研究を進めています。革帯にも織物の巻かれたもの、細かな刺繍の施されたものや、細い革紐を編み込んだものがあることがわかってきました。これまで鍛金や鍍金、鋳金といった金工職人としての姿でしかみえなかった、馬具工人たちの実態が明らかになりつつあります。

 飛鳥寺の造仏に際しても、鞍作鳥は銅(あかがね)と繍(ぬいもの)の丈六仏各一体の制作を命じられています。鞍作氏は金工に限らず、繊維工芸など上述した様々な技術と知識を保持していました。飛鳥寺などの古代寺院の造営には、馬具と同様に多様な材質の素材を加工し、製品をつくる技術が必要とされました。そこで活躍したのが、高度な技術と知識に長けた鞍作氏だったのです。鞍つくり(馬具つくり)から仏つくりへの転身は時代の要請によるものだったのでしょう。

 有力者の権力を示すための古墳つくりを中心に様々な手工業が行われていた時代から、造寺造仏に関連する手工業が重きをなす時代へ、社会は大きく変化します。そうした変革期にあっても、技術と知識をもって時代の要請にこたえた鞍作氏をはじめとする工人たちの姿と、残された「作品」に感銘を受けずにはいられません。

 

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群馬県八幡観音塚古墳出土泥除け(障泥)吊金具
高崎市教育委員会1992『観音塚古墳調査報告書』
高崎市観音塚考古資料館提供

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法隆寺献納宝物金銅仏光背(N-195_1)
「東京国立博物館研究情報アーカイブズ」
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1841 より

(都城発掘調査部アソシエイトフェロー 片山 健太郎)

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