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平城から、平成まで ―「隆光さんの墓石」の向こうに―

2018年11月 

 平城宮跡の北端近く、佐紀池の北のほとりに立つ「隆光(りゅうこう)さんの墓石」を知る人は、あまり多くないかもしれません。

 ですが、ここは、平城宮跡に堆積した「歴史の地層」を眺めるには格好のスポットです。

 「隆光さん」は江戸時代中期の僧侶・護持院隆光のこと。徳川五代将軍綱吉の祈祷僧となり、厚い信任を得て、僧侶の最高位・大僧正にまで昇ります。この隆光さん、実は大和の出身。平城宮跡北辺界隈の村で生を受け、10歳で唐招提寺に入り、長谷寺などで修行を積みます。江戸に出てからは綱吉の側近として権勢を振るい、大和国内の諸寺の再興などにも尽力。現在の東大寺大仏殿の再建に多大な貢献を果たしたことでも知られます。

 そんな隆光さんの墓石(しかも、高さ70㎝足らずの質素な自然石)が、何故こんなところに、人知れず佇んでいるのでしょう? 実は隆光さん、綱吉が亡くなると途端に失脚、故郷・大和での隠棲を余儀なくされます。生家の近くにあったお寺を再興して住まい、ひっそりと余生を送ったそうです。墓石の北隣にある保育園舎は、隆光さんが暮らした本堂の跡地に建てられたものとのこと。

 隆光さんが晩年を過ごした寺の名は、超昇寺(ちょうしょうじ)。実は、平城宮の歴史とも深く関わるお寺です。

 超昇寺は平安時代初頭に高丘親王(真如法親王)が創建した寺院で、その高丘親王の父親が、平城(へいぜい)天皇。都を平城京から長岡京、さらに平安京へと遷した桓武天皇の長男で、父帝が亡くなるとただちに即位、平安京第二代の天皇となります。が、わずか数年で弟の神野(かみの)親王(嵯峨天皇)に譲位し太上天皇となり、幼少期を過ごした平城宮の、今は復元された第一次大極殿が建つ場所に移り住みます。その後、側近たちの策謀などもあって嵯峨天皇と対立。兄弟同士での政争に敗れ、そのまま蟄居し、この地で亡くなりました(この晩年の様相、隆光さんのそれと重なりますね)。

 平城太上天皇の死後、領地の一部に開かれた超昇寺は、往時は壮大な伽藍を誇ったとみられますが、時代の移ろいとともに衰微してゆきます。けれど、「超昇寺」の名はその後も永く地名として残り、中世にはこの地を根拠とする地侍の一党「超昇寺党」が活躍したことが知られます(ちなみに、佐紀池の北に隣接する御前(おまえ)池のさらに北西には、超昇寺城の跡も残っています)。

 隆光さんの生家も、この超昇寺党の流れを汲む家柄とのこと。江戸を追われ、失意のうちに生まれ故郷に終の棲家を定めた隆光さんが、超昇寺の寺号を継承した想いが偲ばれます。この超昇寺は、隆光さんの没後も細々と存続したようですが、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、とうとう廃寺となりました。

 時に、いわゆる生類憐(あわれ)みの令への関与を指弾され、「悪僧」と非難される隆光さん。言われなき誹謗として、汚名を雪ごうと活動されている方々もいます。公道から墓石までのアプローチは、そのような篤志家たちにより、平成に入ってから整備されたものとのこと。現代に至り、隆光さんに、再びスポットライトが向けられつつあります。

 平城宮跡の地に刻まれた歴史は、奈良時代のみに留まりません。それは降り積もり、層をなしつつ、平成の今にまでつながっているのです。

 元号が改まる来年以降は、はたして、どんな歴史が積み重なってゆくのでしょうか。

 

【参考文献】
 青山茂「護持院隆光の墓所」(『日本文化史研究』25,1996年)

 

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隆光さんの墓石(中央)
左手前は、昭和53年に立てられた顕彰碑

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隆光さんの墓石と平城宮
(赤い星印が、隆光さんの墓石の位置)

(都城発掘調査部研究員 山本 祥隆

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