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平城宮第一次大極殿院における幢旗遺構の発見と奈文研の継続調査

2018年11月 

 元日朝賀と即位式は、古代国家にとって最も重要な儀式でした。これらの儀式に用いられたのが、烏・日月・四神をモチーフにした7本の宝幢・四神旗(幡)(以下、幢旗(幡))です。平安時代の史料には、主柱に2本の脇柱が付く3本柱の幢旗が大極殿の前に7本横一列に並ぶと規定されています。1983年に第二次大極殿の前でこの宝幢・四神旗を立てた遺構が発見されると、発掘遺構からその実態に迫ることが可能になりました。

 2016年、大宝元年(701)元日朝賀にともなう藤原宮幢幡遺構が発見され、1本柱を立てる柱穴が中央に1基、その東西に各3基が三角形状をなして大極殿院南門前面に並ぶという、宝幢・四神旗(幡)を立てる儀式の最初の在り方があきらかになりました(図1)。しかしこの発見は同時に、大極殿の前面で3本柱の幢旗が7本横一列に並ぶ定型化した配列方式へと、いつ、どのように変化したのかという新たな課題を浮上させることにもなったのです。

 これまで、宝幢・四神旗を立てた遺構は、藤原宮大極殿院南門の前、恭仁宮朝堂院南門の北、平城宮西宮、平城宮第二次大極殿の前、長岡宮大極殿の前でみつかっていました。藤原宮のもの以外は、いずれも3本柱を立てる横長の柱穴が7基横一列に並ぶものです。しかしながら、平城宮第一次大極殿院の様相はまったく不明でした。かつては磚積擁壁の下で検出されていたものが第一次大極殿院にともなうのではないかという説もありましたが、2014年の発掘調査により、奈良時代後期の西宮の幢旗遺構であることが判明しています。したがって、宝幢・四神旗(幡)がいつ、どのように変化し、定型化したのか、という課題を解決するためには、平城宮第一次大極殿院の様相解明が不可欠の課題となったのです。

 この新たな課題を解決するため、平城宮第一次大極殿院の発掘調査成果を再検討しました。1970年の調査である平城宮第69次調査の図面を精査していたところ、第一次大極殿の前面、磚積擁壁の上で、3本柱を立てる横長の柱穴が横一列に5基並ぶ遺構を新たに発見しました。大極殿の中軸で折り返すと合計7基です。これらの柱穴は西宮の遺構により壊されており、第一次大極殿院の遺構に位置づけられます。第一次大極殿院にともなう宝幢・四神旗を立てた遺構とみて間違いありません(図2)。

 この発見により、三本柱の幢旗を横一列に大極殿の前に並べるという宝幢・四神旗(幡)を使った儀式の定型化が、平城宮第一次大極殿院において達成されたことが判明しました。宝幢・四神旗(幡)を立てる宮廷儀礼の展開過程において、奈良時代前期の平城宮が有する重要性・画期性が初めてあきらかになったのです。

 1983年の第二次大極殿院での幢旗遺構の発見、2014年の西宮での幢旗遺構の帰属時期の確定、2008年の調査で提示された説に基づき、それを証明した2016年の藤原宮幢幡遺構の発見がなければ、今回の幢旗遺構の発見はありませんでした。そして、1970年段階では未知の遺構であった幢旗遺構について、きちんと平面検出をおこない記録していた、奈文研の大先輩たちの精密な発掘調査のお蔭でもあります。まさに奈文研の継続的な発掘と研究が生んだ発見といえるでしょう。この幢旗遺構にも細かな成立時期など、課題はまだ残っています。奈文研の継続的な調査研究が、今後も新たな発見をもたらすことを是非ご期待ください。

 

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図1 藤原宮における大宝元年元日朝賀の復元(南から。赤い柱が大極殿院南門の遺構表示、奥の森が大極殿、宝幢・四神幡(旗)の復元品を遺構に配置。中央に烏形幢、東に日像、西に月像、東北に青龍幡、南東に朱雀幡、北西に玄武幡、西南に白虎幡を配する。)

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図2 平城宮第一次大極殿院における元日朝賀・即位式の復元(南から。第一次大極殿の復元建物の前面に、宝幢・四神旗(幡)の復元品写真を合成。東から青龍旗、朱雀旗、日像幢、烏像幢、月像幢、白虎旗、玄武旗を配する。)

(都城発掘調査部研究員 大澤 正吾

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