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大極殿を飾った二種類の凝灰岩

2018年8月 

 藤原宮大極殿は、柱の基礎に礎石を使用し、屋根には瓦を葺くという大陸的な様式を 取り入れた、我が国で最初の宮殿建築でした。桁行9間、梁行4間のその巨大な建物は、舞台のような高い基壇の上にそびえていました(図1)。古代の寺院や宮殿の基壇は、土を盛り固めて築かれますが、最終的に表面を精緻に加工された石材で覆って飾り立てます。こうした加工石材で化粧された基壇を切石積基壇と呼びますが、藤原宮大極殿は、切石積基壇を採用した最初の宮殿建築でもありました。

 大阪と奈良の間に位置する二上山は、千数百万年前の火山活動で形成された石の山ですが、日本の古代国家は、政治的・宗教的施設の造営に際して、二上山から産出する凝灰岩を好んで使用しました。二上山の凝灰岩は、粗い白色の素地に黒い大粒の角礫が混ざることが特徴で、見慣れると誰にでもそれとわかります。他の石材にくらべて軽量軟質で、加工や運搬が容易であることから、古代の国家的な造営事業で大量に消費され、極彩色壁画で著名な高松塚古墳やキトラ古墳の石室でも二上山の凝灰岩が使用されました。反面、脆く、長期使用には向かないというデメリットも持ち合わせていました。

 一方、藤原宮の大極殿やその周辺では、二上山の凝灰岩に加えて、青緑色ないしはクリーム色を呈するもう一種類の凝灰岩が出土します(図2)。兵庫県加古川の右岸で産出する流紋岩質凝灰岩で、一般的に竜山石と呼ばれています。竜山石は、古墳時代以来、石棺を中心に使用されてきましたが、飛鳥時代後半以降はあまり使用されなくなっていきます。竜山石は二上山凝灰岩に比べて硬質で、加工に手間暇を要することがその要因と考えられます。

 実際に古代の宮殿で竜山石の利用が確認できるのは、藤原宮大極殿とその周辺、平城宮第一次大極殿、恭仁宮大極殿の3ヵ所のみです。実はこの3つの大極殿は、建築面積や柱配置の一致から、藤原宮→平城宮→恭仁宮と移築されていったことが明らかにされています。竜山石の使用が他では認められないことふまえると、平城宮、恭仁宮から出土する竜山石はその都度、新規で切り出されたものではなく、藤原宮で使用されたものが移築にともなって持ち運ばれ、再利用されたものとみるべきでしょう。

 近頃、藤原宮出土の竜山石を再整理している過程で、表面に日付を墨書した石材が出土していることに気づきました(図3)。墨書は、竜山石の石切場から石材を搬出するにあたり、出荷の日付を造営現場に伝えるためのものではなかったかと推測しています。造営現場から遠くはなれた石切場から、指令通りに石材を搬送したことを伝える記録を兼ねていたのでしょう。竜山石は藤原宮の造営現場に到着後にさらに加工が加えられ、墨書が記された表面部分は削り落とされ、廃棄されるに至ったようです。このことから、竜山石の石切場での加工は必要最低限の形状を整えるもので、造営現場に到着した後に、礎石や基壇外装に使用するための最終加工がなされたことが判明します。このように、発掘現場から出土する何気ない石材でも、その来歴を詳しく整理することで、宮殿の造営過程、さらには移築の経過などを読み取ることができます。

 では、藤原宮の大極殿ではなぜ、竜山石が使用されたのでしょうか?硬くて加工が難しく、輸送コストもかかる竜山石は、造営事業を遂行する側からすれば決して扱いやすい石材ではなかったはずです。それでも竜山石の使用に踏み切った背景には、律令国家にとって最重要施設となる大極殿の造営をなんとしても成功に導かんとする造営者側の意気込みが感じられてなりません。竜山石の出土は、藤原宮大極殿の造営が国家の威信をかけた一大事業であったことをあらためて私たちに教えてくれています。

 

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図1復元された平城宮第一次大極殿(藤原宮大極殿が移築された)

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図2藤原宮大極殿から出土した二種類の凝灰岩(左:竜山石 右:二上山凝灰岩)

 

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図3藤原宮大極殿院出土の墨書竜山石(左隅に「十一月廿」〇日と墨書)

(都城発掘調査部主任研究員 廣瀬 覚)

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