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藤原宮から平城宮、瓦工人の足跡をたどる

2018年6月 

 694年(持統天皇8年)、飛鳥浄御原宮から遷都した藤原宮では、日本で初めて寺院以外に瓦が採用されました。屋根を覆う黒灰色の瓦は、建物を風雨から守るだけでなく、建物を荘厳にみせる効果があります。瓦葺の藤原宮は、律令制に基づいた新しい都城の象徴として視覚的にも大きなインパクトを与えたことでしょう。しかし、藤原宮が実際に宮殿として使用された期間は16年間と短いものでした。

 平城遷都に伴って、藤原宮を彩った瓦は屋根から下ろされ、状態のよいものは平城宮に運ばれました。現在、平城宮から出土する藤原宮の瓦は、藤原宮の再利用品と考えられています。しかし、藤原宮の瓦生産は、694年の藤原遷都後も続けられていたことは確実です。とすれば、藤原宮の瓦窯が平城宮にも引き続き瓦を供給した可能性も十分あります。

 ただ、平城宮での藤原宮の瓦の出土分布をみてみると、瓦当文様も産地もバラバラであまりまとまりがありません。一方、藤原宮では同じ瓦窯で作られた軒丸瓦と軒平瓦はセットで同じ建物から出土する傾向があります。平城宮でも第一次大極殿など、重要な建物に使う瓦の文様と産地は決まっていて、中山瓦窯(奈良市)で一括生産しています。したがって、分布状況をみる限り、藤原宮の瓦窯から平城宮へ直接瓦を供給したとは言い難く、藤原宮の各所から集めてきた瓦を一気に屋根に葺いた状況が想定されます。現状では、やはり藤原宮の瓦窯は藤原宮の造営終了とともに、操業を終えたと考えるのが妥当のようです。

 では、役目を終えた藤原宮の瓦工人たちは、どうなったのでしょうか。

 まず、藤原宮造営に伴って、地方から徴用され、瓦作りに携わった人は故郷に戻ったと思われます。愛知県春日井市にある高蔵寺瓦窯からは、藤原宮の瓦窯である日高山瓦窯(橿原市)と同じ笵型から作った軒丸瓦が出土しています。高蔵寺瓦窯で生産された瓦は作り方や窯の構造など、藤原宮のものと共通する部分が多いので、宮で瓦作りに携わった工人が任務を終えて尾張に帰り、譲り受けた笵を用いて瓦を生産した可能性が考えられます。

 さらに、最近の調査で興味深い事例が確認できました。2014年に発掘調査した平城宮の瓦窯である中山瓦窯から6281Bbという型番の軒丸瓦の小片が出土しました。6281Bbは、軒丸瓦6281Baの笵型の外側部分を彫り直したものです(図1)。6281Baは元来は西田中・内山瓦窯(大和郡山市)で生産されていた藤原宮の瓦ですが、6281Bbは藤原宮からは出土せず、平城宮でのみ出土が確認されています。また、西田中・内山瓦窯とは土が異なるため、今までどこで作られたものかはわかりませんでした。今回の調査で、6281Bbが中山瓦窯産と確定し、初めて藤原宮の瓦窯から平城宮の瓦窯への笵型の移動が確認できました。製作技法も、西田中・内山瓦窯と中山瓦窯には共通する部分があることから、西田中・内山瓦窯の瓦工人の一部が中山瓦窯で平城宮の瓦生産に従事した可能性が高いと考えています。一方、窯構造をみると(図2)、藤原宮の高台・峰寺瓦窯(御所市・高市郡高取町)や日高山瓦窯とも関連がありそうです。

 藤原宮の瓦工人は、200万枚ともいわれる膨大な量の瓦を短期間で生産するという未曾有の課題に対し、生産体制の改変や積極的な新技術の導入で、これを見事クリアしました。藤原宮での瓦生産はそれほど長くはありませんでしたが、その技術や工夫は、平城宮をはじめ全国各地に受け継がれ、奈良時代の瓦生産の礎になったと考えています。

 

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図1 6281Ba(西田中・内山瓦窯産)と外縁を彫り足した6281Bb(中山瓦窯産)

 

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図2 中山瓦窯の窖窯(登窯)。瓦を並べて段にした焼成部が良好な状態で残る。ここに瓦を詰めて焼いた。
焼成部の床面の傾斜が緩く、全長に対し幅が広いのが特徴。

(都城発掘調査部研究員 石田 由紀子)

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