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梅のはなし

2018年4月 

 ようやく寒い季節も終わりをつげ、上着のいらない暖かい季節が到来しました。平城宮跡でも春を告げる梅や桜の花が咲き、今年もお花見のお客さんをたくさん見かけました。今回はその桜...、ではなく梅のお話しです。

 「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(王仁『古今和歌集仮名序』)

 飛鳥時代の木簡にも記された有名なこの歌に出てくる「花」は、梅の花とされます(桜という説もあります)。『万葉集』には「梅」の字が入った歌が119首みられ、この数は桜の47首を凌ぎます。奈良時代にすでに梅花鑑賞の習慣があったことは、天平2年(730)正月13日に大宰帥大伴旅人の邸宅で梅花の宴が催されたとき、列席者たちが「梅花歌32首」を読んだことからもうかがえます。実際に、平城宮跡東院庭園や左京三条二坊の宮跡庭園の池からウメの種(正確には核)が出土していて、梅の木の存在をうかがわせます。天神様と呼ばれ親しまれている菅原道真は、梅花にまつわる漢詩を24篇もつくるほど梅の花を愛でたといいます。各地の天満宮が梅の名所になっていることや、核の中に入っている仁のことを「天神様」と呼ぶことがあるのはそのためでしょう。このころまで花の鑑賞といえば梅だったようですが、中世以降、桜にその地位を譲ることになります。

 もともとウメは、中国南方原産の植物です。皆さんもご存知のとおり、ウメの果実は強い酸味をもち、今では梅干しや煮梅、梅酒などによく利用されています。中でも私たちにとって梅干しはもっとも身近な漬物ですよね。そういえば私の実家でも祖父母がやたらと酸っぱい梅干しを作っていたことを思い出します。

 ところで、最古の梅干しは、今のところ中国にあります。紀元前2世紀ごろの馬王堆漢墓に副葬された土器の中から梅干しが見つかったとされています。日本では、「梅干」の文字が史料に初めて登場するのは鎌倉時代のことのようです(『世俗立要集』)。ただ、それ以前にも、もっぱら薬用(解熱、止血、咳止めなど)とはされますが、「烏梅」(干し梅)(『延喜式』)や塩梅(『大同類聚方』)として出てきます。つまり滋養のよい食べ物として認識されていたことが分かります。

 日本の遺跡では、国立歴史民俗博物館のデータベースによると、ウメの種は、縄文時代終わりごろの遺跡から出土しはじめ、弥生時代や古墳時代には全国的に広がります。これらは観賞用というよりも食用や薬用でしょう。そして奈良時代。平城宮・京跡では、溝や井戸から数点~数十点単位で出てきます。例外的ではありますが、木簡も数多く出土したことで有名な二条大路の濠状遺構からは2000点以上、西大寺の食堂院の井戸からも300点あまり出土しています。これらの用途を考古学的に証明することはとても難しいのですが、史料を参考にすると観賞用や薬用だと考えることができます。ただし、二条大路での桁外れの量や西大寺食堂院のような場所で出ていることを考えると、一部は食用としていたのかもしれません。西大寺食堂院からは製塩土器が出土していますから、もしかして梅干しがあったのかも?なんて考えてしまいます。いつの日か壺に満載された梅の種が出ることを夢見て。

 

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平城京跡で出土したウメの種。今のものより少し小ぶり。

 

(都城発掘調査部研究員 芝康次郎