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「美濃」「美濃國」刻印須恵器はどこへいったのか?

2018年1月 

 岐阜県岐阜市に、国の史跡に指定されている老洞古窯跡群という遺跡があります。飛鳥・奈良時代の美濃国(現在の岐阜県南部)では最大、全国規模でも屈指の須恵器生産地であった美濃須衛古窯跡群(美濃須衛窯)の一角をなす窯跡群で、発掘調査によって3基の窯跡の存在が確認されています。古代の窯跡だけでも130基以上ある中から、この窯跡群が取り立てて国の史跡に指定されているのは、3基のうちの1基、老洞1号窯で「美濃」あるいは「美濃國」という文字の印を押した須恵器が多数焼かれていたからです(刻印須恵器は1290点出土)。

 「美濃」「美濃國」と刻印された須恵器の形状は、飛鳥時代の最後の宮(皇居)であった藤原宮の跡から出土する須恵器と大変よく似ていますから、いつ頃のものであるかは、大よそ推測できます。しかし、飛鳥時代の木簡を見ると、美濃国は「三野國」「御野國」と表記されており、「美濃國」と表記されるようになるのは、和同元年(708)以後のようです。ですから、「美濃」「美濃國」刻印須恵器が焼かれたのは、藤原京から平城京へ都が遷ったばかりの奈良時代最初期のことであろうと考えて、まず間違いはないでしょう。実際、平城宮・京からはいくつかの出土例があるのに対して、「美濃」「美濃國」刻印須恵器の藤原宮・京からの出土例は僅か1例で、しかも奈良時代の遺構からの出土です。

 このように、焼かれた年代については、ほぼ明らかになっているのですが、わからないのは須恵器に「美濃」「美濃國」という印を押した理由です。出土した土器の1点や2点に国の名が墨書されているということはあっても、1000点を超える須恵器に国の名を記した印を押していたという事例は他にありません。なぜ、ことさらに国の名を表示する必要があったのでしょうか?

 普通に考えれば、「美濃国で作ったものですよ」という産地表示以外の何物でもありません。ですから、生産の時点で既に美濃国以外のどこかへ持っていくことが予定されていた、と考えるのが自然です。そうでなければ、わざわざ「美濃」「美濃國」という印を押す意味がないからです。ところが、窯跡以外の遺跡からの「美濃」「美濃國」刻印須恵器の出土事例を調べてみると、圧倒的に岐阜県の美濃地域が多いのです。

 2001年時点ですから、ちょっと古いのですが、日本全国の窯跡以外の遺跡から出土した「美濃」「美濃國」刻印須恵器を集成した研究者によると、全79点のうち49点が岐阜県の美濃地域、15点が愛知県の尾張地域、5点が奈良県、4点が三重県と長野県、2点が大阪府で出土しているそうです(渡辺博人「美濃須衛窯と「美濃」国刻印須恵器」『東海の古代①美濃・飛騨の古墳とその社会』同成社、2001年)。

 こうした分布のあり方から、「美濃」「美濃國」刻印須恵器といえども、美濃地域を中心とする美濃須衛窯産須恵器の基本的な流通圏に供給されたもので、特定の地域に向けた製品ではなかったとする意見もあります。しかし、地元の美濃地域に供給するために、わざわざ「美濃」「美濃國」という印を押すのは不自然です。やはり、美濃国以外のどこかへ持っていくつもりで焼いたのではないでしょうか。

 そう考えた時に、有力な候補として考えられるのが平城宮です。これまでに平城宮跡から出土した「美濃」「美濃國」刻印須恵器はわずかに数点。美濃地域からの出土点数と較べるとはるかに少ないのですが、それにはわけがあります。国の特別史跡に指定されている平城宮跡は大変重要な遺跡ですから、発掘調査をして奈良時代の遺構の面に達すると、遺構を守るために原則としてその下層は掘りません。しかし、奈良時代の平城宮の地面はずっと同じ高さであったわけではなく、都として機能していた74年の間に、盛り土をするなどしてかさ上げされていることが多いのです。

 ですから、発掘調査で明らかになっている平城宮の姿は基本的に奈良時代後期のものであって、「美濃」「美濃國」刻印須恵器が焼かれていた奈良時代最初期の遺構のほとんどは、手つかずのまま、まだ地中に埋もれているのです。きっと、その中に「美濃」「美濃國」刻印須恵器がぎっしり詰まった遺構があるに違いありません。老洞古窯跡群で焼かれていた須恵器が、美濃須衛窯の他の窯の製品よりもはるかに精良な土で作られていて、とても高品質であることも、宮(皇居)への供給品だったと考えると、納得しやすいのではないでしょうか。

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平城宮跡出土の「美濃」刻印須恵器

(都城発掘調査部考古第二研究室長 尾野善裕)

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