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新年

2018年1月 

 年越し蕎麦を食べて除夜の鐘を聞いて、初日の出、お屠蘇におせち料理、お年玉、初詣。それなりに忙しく過ごした元旦の夜に見るのが初夢。縁起が良いのは、一富士二鷹三茄子。なんでも、徳川家康が好きだったベスト3なんだとかいう話もありますが、夢に富士山がどーんと出てくれば、確かになんだか目出度くて縁起が良い気がします。

 富士山の気高い美しさは、平城京の都人にも知れ渡っていたようです。奈良時代の官人にして歌人の山部赤人が、夏でも頂に雪をかぶって屹立する富士山の美しさを、高らかに、それも景勝地田子の浦とセットで詠み上げるという、さながら観光ガイドのような歌を残しています。

 この様に著名な富士山ではありますが、どうも「悪目立ち」してしまうこともありました。富士山と地元の山を比べるようなお話しが、幾つか伝わっています。そんなお話しの一つが、関東平野南にそびえる富士山と向かい合う、関東平野の北の霊峰・筑波山の麓でも語られていました。奈良時代に、元明天皇の勅命で各地の言い伝えを蒐集した『風土記』の茨城県版、『常陸国風土記』が伝える物語は、こういうものです。

 昔、富士や筑波の神の、親の神様がおられました。この親の神様が、富士山にやってきたとき、日が暮れてしまいました。そこで、富士の神に、泊めて欲しいと頼みます。ところが、富士の神は「今日は新嘗の祭だから」と断りました。新嘗の祭は、その年最初の収穫物を捧げる神聖な祭祀で、厳重に潔斎していて、誰かを家に入れるわけには行かない、というわけです。断られた親の神様は「なんと冷酷なことよ。おまえの山は、冬も夏も雪が降って霜が降りて、寒くて、人々も来ず、飲食物を供えるものもないであろうよ」と言い捨てて、今度は筑波山にやってきて、宿を請います。筑波の神は、「今日は新嘗の祭ですが、親の事は格別、どうぞお泊まり下さい」と家に招き入れたのみならず、飲食物を整えてもてなしました。親の神様は大喜びで、「おまえの山には、いつも人々が集まって賑やかで、飲食物のお供えも豊富で、後々の世まで栄えるだろうぞよ」と絶賛しました。こういうわけで、今でも富士山にはいつも雪が降り積もって人が登る事もできません。そして、筑波山には人々が集まって、歌い、踊って、食べて、飲んで楽しく過ごすのです。

 宗教的タブーを厳格に守った富士山が批判され、肉親の情に流された筑波山が讃えられているのは、ちょっと気の毒な気もします。でも、おかげで富士山は、山部赤人にも讃えられる様な神々しさを手に入れたと言えるかもしれません。一方、筑波山麓の人々は、歌舞飲食に象徴される人生の楽しみ、肉親との愛情、もてなしの心といった人情味溢れる世界を大切に暮らしながら、親しみを込めて山を眺めていたことだと思います。

 そして、そんな筑波山麓に生まれ育った壬生宿祢小家主女という女性の姿を、奈良時代後半の平城宮に見いだすことができます。彼女は下級の女官として宮中に仕えるうちに、孝謙女帝の寵愛を受け、その側近として出世を遂げていきます。孝謙上皇が淳仁天皇と対立した際には、孝謙上皇のもとで用いる調味料を届けるよう、命令を出したりしています。

 この命令を伝える際の木簡こそ、昨年国宝に指定された平城宮跡出土木簡の、最初に発見された中の一点で、一号木簡と名付けられたあの木簡です。木簡にかかれた「竹波命婦」すなわち筑波命婦こそ、小家主女その人なのです。

 筑波山麓の人々の温もりを抱いた小家主女の活躍が残した木簡が、天平の人々の生の声と温もりを今日に伝えてくれる。そしてその木簡は、「国民の宝」にもなりました。

 今日では富士山も、登山者で賑わう様になりました。平城宮も富士山も世界遺産です。貴く気高いけれど、親しみも涌く。富士山も、筑波山も、平城宮も、木簡も、実に素敵だと思のですが、いかがでしょうか?

 

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(都城発掘調査部主任研究員 馬場基)