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もうひとつの「長屋王墓」~『日本霊異記』を歩く2

2017年7月 

 1988年に平城京左京三条二坊から出土した3万5千点の木簡は、「長屋王家木簡」と名づけられ、奈良時代の貴族の生活を垣間みる、貴重な資料として知られています。これらの木簡は、古代史研究において長屋王の名を不動のものとしたのですが、彼は奈良時代の人物としては比較的史料がゆたかで、『続日本紀』のほか『懐風藻』『万葉集』といった文学史料、鑑真との交流を伝える『唐大和上東征伝』、『日本霊異記』のような仏教説話集、長屋王願経とよばれる写経など、仏教にかかわる史料にも多くその足跡をとどめています。そういえば、「コラム作寶樓」は長屋王のサロンに因んだものでしたね。

 長屋王にかかわり、もっともよく知られた事件は、長屋王の変です。『続日本紀』によると、神亀6年(729)2月10日、「長屋王が密かに左道を学び、国家を傾けようとしている」との訴えにはじまり、王は妻の吉備内親王やその子とともに2日後に自害しました。事件は、皇位継承や藤原氏との権力争いによるものと考えられています。翌13日、長屋王と吉備内親王は生駒山に葬られますが、このとき、吉備内親王は罪がないので通常の葬礼をおこない、長屋王も罪人とはいえ葬礼を醜くしてはならない、との命が出ます。奈良県平群町梨本の二つの円墳が、長屋王と吉備内親王の墓とされています。

 一方『日本霊異記』は、変にかかわる独自の「史実」を伝えています。それによると、ことの起こりは、2日前の同年2月8日の元興寺大法会の場。長屋(親)王が無作法な沙弥の頭を象牙の笏で叩く事件があり、その因果と応報により、2日後に讒言され、謀反の疑いをかけられたというのです。一族の亡骸は焼き砕いて京外の河や海に捨てられ、親王の骨は遠く土佐国に流されました。さらに、後に土佐国で多くの死人が出たとき、人々はその死を「親王の気(祟り)」によるものと訴えたため、これを聞いた天皇は、親王の骨を、紀伊国海部郡椒枡村の「奥ノ嶋」に移させたといいます(中巻第1縁)。

 ところで、この説話とかかわるもうひとつの「長屋王墓」が、和歌山県有田市に残されています。「奥ノ嶋」に比定される沖ノ島の対岸、初島町にある椒古墳で、明治41年(1908)に発見されました。古墳の築造年代は古墳時代後期初頭を降らないものですが、地元では長屋王の墓として祀られ、墳丘頂上には「長屋王霊跡之碑」と刻まれた石碑が建てられています。こうした「史実」に由来する信仰が戦時中における古墳の保存を後押ししたことを考えると、もはや立派な『霊異記』にかかわる遺跡といってよいのではないでしょうか。説話や伝承の世界を荒唐無稽として切りすてるのは簡単ですが、そこにも史実を読み解くカギが隠されているのであって、それを解き明かしていくのも歴史学の醍醐味ではないかと考えます。

 

 

長屋王墓と吉備内親王墓_中村一作氏撮影.jpg

昭和20年代後半頃の長屋王墓(中央)と吉備内親王墓(左)中村一作氏撮影

 

 

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椒古墳「長屋王霊跡之碑」写真提供:有田市教育委員会

 

(都城発掘調査部主任研究員 山本崇)